ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリン
ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリン (ルーマニア語:Drobeta-Turnu Severin、発音: /dro'be.ta 'tur.nu se.ve'rin/, ハンガリー語: Szörényvár, ブルガリア語: Северин セルビア語: Дробета-Турну Северин,ドイツ語:Drobeta Turnu Severin)は、ルーマニア、オルテニア地方、メヘディンツィ県の県都。かつてはトゥルヌ・セヴェリンと呼ばれていた。日本語では、ツルヌ・セヴェリン、ツルヌ・セベリンという表記も見られる。 地理ドナウ川左岸にあり、鉄門の下流に位置している。オルテニア西部、トポルニツァ低地の端にあり、ティミショアラの南東220km、クライオヴァの西113km、ブカレストの西353kmの地点にある。地中海性気候に近い温暖な気候で、アーモンド、イチジク属、ライラック、ボダイジュ、クリ、モクレン、コーカサスサワグルミ、イチョウなどの木の自生地である[3]。 市は、ドゥダシュ・スケレイ(Dudaşu Schelei)、グラ・ヴァイイ(Gura Văii)、スケラ・クラドヴェイ(Schela Cladovei)の三つの村を含んでいる。 歴史市名は最初古代ローマ人からドロベタエ(Drobetae)と呼ばれていた。これに後にトゥルヌ・セヴェリン(北の塔)という名が付け加えられた。これは、ローマ帝国が建てたドナウ北岸の塔にちなむ。この塔は、深い堀によって囲まれた小さな丘の上に立てられていた。塔はセプティミウス・セウェルス帝が、ガリア人とマルコマンニ人に勝利したのを記念したものである。トゥルヌ・セヴェリン近郊には、トラヤヌス橋の遺跡が残っている。これは帝国内で最大級のもので、103年に建築家・ダマスカスのアポロドーロス(en:Apollodorus of Damascus)によって建造されたものである。ドナウ川はこの地点でおよそ1,200mの川幅がある。橋は石の柱で支えられた20本のアーチで構成されていた。わずか2つの柱が、干潮時に今も見ることができる。 属州ダキアからローマの行政管理が引き上げた後、市はドナウ北岸の拠点としてローマ支配のもとで保護された(4-6世紀)。5世紀にフン族の来襲で市は破壊され、ユスティニアヌス1世によって再建された。中世になって、市はその名をトゥルヌ・セヴェリンとし、13世紀にはセヴェリンのバンの政治的中心地となった。市は、セヴェリンにカトリック教会の司教座を設置したハンガリー王国に最初支配され、1330年頃にワラキアのヴォイヴォドが領有した。1524年、市はオスマン帝国に征服された。かつてのトルコ支配のもとで、領土管理はオルテニア西部へ移され、チェルネツィ(Cerneţi)に集約された。 1829年のアドリアノープル条約の結果、ドナウ川の航行がオスマン帝国の管理から自由になると、現在の都市と川港が建設された。工業施設が市の再発展に拍車をかけた。1969年にトゥルヌ・セヴェリンは県都になり、1972年、都市(municipiu)になるとともに、古代のドロベタの名を市名に加え、ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンとなった。 人口出身の人物
参照
脚注
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