ダニー・ブランチフラワー
ロバート・ダニエル・"ダニー"・ブランチフラワー(Robert Daniel "Danny" Blanchflower, 1926年2月10日 - 1993年12月9日)は、北アイルランド・ベルファスト出身の同国代表サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはMF(ライトハーフ)。 トッテナム・ホットスパーFCでは巧みなパスワークで中盤の司令塔としてチームを牽引し[1]、1960-61シーズンにフットボールリーグとFAカップのダブルを達成[2]。クラブの代表的なプレーヤーとなった[3]。38歳で現役を引退すると、ジャーナリストを経て指導者に転身した。最も偉大な北アイルランド人選手の一人とされている[4][5]。 若年期父ジョンと母セリーナの下、5人兄弟の長男としてベルファストのブルームフィールド地区ダンレイヴン・パークに生まれる[6]。母は女子サッカーチームでセンターフォワードを務めていた。ベルファスト工科大学ではスカラシップを取得する[7]。 ベルファストに所在するギャラハーのタバコ工場で電気技師の研修生になるために退学[8]。戦時中の市民防衛組織であるARPに参加し、1943年には年齢を偽ってイギリス空軍に入隊した[5]。航空士訓練生としてスコットランドのセント・アンドルーズ大学へ派遣され、1945年にはカナダへ渡り経験を積む。 セント・アンドルーズ時代にはダンディー大学のチームでプレー[9]。第二次世界大戦後の1946年にベルファストのギャラハー社に戻り、フットボーラーとしての評判が立った[7]。 クラブ歴キャリア初期地元のグレントランFCでプロ選手としての経歴を開始し、1949年に6000ポンドの移籍金でイングランドのバーンズリーFCへ移籍すると[7]、2年後の1951年には1.5万ポンドの移籍金でアストン・ヴィラFCへ加入した[10]。ヴィラでは公式戦155試合に出場した。 トッテナム1954年に3万ポンドの移籍金でトッテナム・ホットスパーFCへ移籍。1960-61シーズンには主将として開幕11連勝を達成し、センターフォワードのボビー・スミスやウィンガーのクリフ・ジョーンズ、中盤でコンビを組んだデイヴ・マッケイらと共にフットボールリーグとFAカップのダブルに貢献した。なおこの記録は1897年のアストン・ヴィラ以来となる20世紀初の2冠獲得となった。 翌1961-62シーズンにはバーンリーFCとのFAカップ決勝でPKを決め同大会を連覇[11]、1962-63シーズンにはUEFAカップウィナーズカップでアトレティコ・マドリードを破り、イングランドのクラブとして同大会の初優勝に貢献[12]。1958年と1961年にはFWA年間最優秀選手賞に選出される。 1961年にはフットボールリーグで競演したスタンリー・マシューズやジョニー・ヘインズらとカナダに渡り、新興の東カナダプロサッカーリーグに所属するトロント・シティFCでプレー[13]。 1964年4月5日に現役引退を表明する。スパーズでの10シーズンでリーグ戦337試合に出場し15得点を記録、キャプテンとして4つのトロフィーを掲げた[14]。 1965年に南アフリカ共和国・NFLのダーバン・シティFCで短期的に復帰し、3試合に出場した[15]。 代表歴北アイルランド代表としては、1949年10月のスコットランド戦でデビュー。1957年12月4日にイタリアをウィンザー・パークに迎えた一戦は過激な試合となり主将としてチームの平静を保つよう努めたが、乱闘騒ぎに発展するなど「バトル・オブ・ベルファスト」と呼ばれる過激で不名誉な試合となった[16]。 1958年のFIFAワールドカップ・スウェーデン大会でもキャプテンマークを巻き同国の準々決勝進出に貢献した。1961年には同代表選手として初めて50試合に出場[17]。1963年に代表から退くまで国際Aマッチ56試合に出場し2得点を記録した。 指導歴・その他の活動1959年にはBBCで番組の司会を担当し[18]、1964年からはITVで解説を務める[19]。1967年にアメリカ合衆国のCBSが放送するNPSL(NASLの前身)専門の解説者に就任[20]。その後ヨークシャー・テレヴィジョンで1968-69シーズンのコメンテーターのレギュラーとなった[21]。 トッテナム・ホットスパーFCで長期政権を築いたビル・ニコルソン監督の下で数年間コーチを務め、1974年にニコルソンが退任した際には同氏から推薦されていたが、クラブの会長はテリー・ニールを後任に指名したため自身はスパーズを去った[22]。1976年に北アイルランド代表の指揮官として招聘され、同年10月のW杯欧州予選・オランダ戦で初采配となった[23]。12月からはファーストディヴィジョンで最下位に喘ぐチェルシーFCの監督に就任するがクラブを浮上させられず2部リーグへ降格、32試合で5勝に止まり翌年9月に退任した[7]。 1988年にサンデー・エクスプレスのライターとしての職を引退する[1]。1990年5月1日にホワイト・ハート・レーンで記念試合が開催されたが、後にアルツハイマー病と診断される初期段階にあった[6]。1993年12月に2日間の昏睡状態に陥った後、同月9日にサリー州の老人ホームで肺炎のため死去した[24][4]。67歳没。 2015年、故郷ベルファストの自身がフットボールを始めたグレース・アヴェニューに銘板が設置される。除幕式には同胞であり自身に続く世代のスパーズで活躍したパット・ジェニングスらが参加した[4]。 人物
タイトル
脚注
外部リンク
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