ジョージ・ダグラス (第13代モートン伯爵)第13代モートン伯爵ジョージ・ダグラス(英語: George Douglas, 13th Earl of Morton、1662年 – 1738年1月4日)は、スコットランド貴族、軍人、政治家。1681年から1730年までジョージ・ダグラス閣下の儀礼称号を使用し、1708年から1730年まで庶民院議員を務めた。 生涯第10代モートン伯爵ジェームズ・ダグラスとアン・ヘイ(Anne Hay、初代準男爵ジェームズ・ヘイの娘)の四男として、1662年に生まれた[1][2]。1685年にスコットランド陸軍に入隊、以降昇進を続けた後1709年に軍から引退した[1]。 1708年イギリス総選挙でクイーンズベリー公爵派の一員としてスコットランドのラナーク・バーグス選挙区で当選したが、このときは活動的ではなく、投票もヘンリー・サシェヴェレルの弾劾が審議されたときの1回だけだった[1]。1710年イギリス総選挙で再選した後はより活動的になったが、1713年イギリス総選挙以降は活動が少なく一時はトーリー党かホイッグ党かで意見が分かれたほどだった[1]。1715年イギリス総選挙でラナーク・バーグス選挙区から再選を果たした後は1回を除き与党ホイッグ党の一員として投票、1722年イギリス総選挙ではラナーク・バーグス選挙区で落選したもののオークニーおよびシェトランド選挙区で当選して議席を保ち、1727年イギリス総選挙でも再選した[2]。1725年、オークニーおよびシェトランド統監に任命され、1738年に死去するまで務めた[1][2]。 兄ジェームズ(1715年12月7日没)とロバート(1730年1月22日没)が生涯未婚のまま死去すると、モートン伯爵の爵位を継承した[3]。その後、1730年から1734年までスコットランド貴族代表議員を務め、1733年から1738年までスコットランド副提督を務めた[1]。貴族代表議員としては1733年5月の南海会社に関する弁論で与党の一員として投票した[2]。 1738年1月4日に死去、長男ジェームズが爵位を継承した[3]。 人物デイヴィッド・ウィルキンソン(David Wilkinson)は『英国下院史』への寄稿で軍人としてのダグラスを「有能ながら平凡」(competent but undistinguished)と評した[1]。 家族1人目の妻はアレクサンダー・ミュアヘッド(Alexander Muirhead)の娘だったが、2人の間で成人した子女はいなかった[3]。その後、フランシス・アッダリー(Frances Adderley、ウィリアム・アッダリーの娘)と再婚[3]、3男を儲けた[1]。 脚注
|