ジョージ・セル
ジョージ・セル(George Szell、1897年6月7日 - 1970年7月30日)は、ハンガリーのブダペストに生まれ、アメリカ合衆国クリーヴランドに没した指揮者、ピアニスト。ハンガリー語でセーッル・ジェルジ(Széll György)、ジェルジ・エンドレ・セール(György Endre Szél)、ドイツ語でゲオルク・セル(Georg Szell)とも呼ばれる。 人物・来歴ハンガリー人の父と、スロバキア人の母の間に生まれ、3歳で一家ともどもユダヤ教からカトリックに改宗する。幼くしてピアノ演奏に才能を示し、「神童」と呼ばれた。わずか3歳からウィーン音楽院でピアノ、指揮、作曲(教師はマックス・レーガーなど)を学んだ。10歳半でモーツァルトのピアノ協奏曲第23番と自作を弾いてまずピアニストとしてデビューし、次いで16歳でウィーン交響楽団を指揮して指揮者としてもデビューする。さらにベルリンの王立音楽アカデミーで行われたブリュートナー管弦楽団にもピアニスト・指揮者・作曲家として顔を出すようになった。セルは青年期までは作曲家としての作品も数多く残したが、最終的には指揮者の道を選び、リヒャルト・シュトラウスの教えを受け、そのアシスタントを経た後、1917年ごろからストラスブールの歌劇場をはじめドイツ各地の歌劇場でキャリアを積んだ。1924年には当時ベルリン国立歌劇場に君臨していたエーリヒ・クライバーの下で第1指揮者を務め、その後プラハのドイツ歌劇場音楽総監督に就任した。しかし、ナチの台頭に脅威を感じてイギリスに移動し、活動を続けた。1939年、オーストラリア・アメリカへの演奏旅行中に第二次世界大戦が勃発したため、帰国をあきらめ、そのままアメリカに定住した。トスカニーニの援助で彼のNBC交響楽団の客演指揮者として迎えられた後、メトロポリタン歌劇場でも指揮した。 1946年、ラインスドルフの後任としてクリーヴランド管弦楽団の常任指揮者に就任した。これは1945-46年のシーズンに客演した際に大好評だったから招聘されたといわれている。このとき、セルは地元の代議士トーマス・セルドーの後援を受けて、経営陣から一切のマネジメントの権限を手に入れ、管弦楽団の改革に大なたを振るう。こうして、一旦はアルトゥール・ロジンスキ(ラインスドルフの前任)が鍛えたものの、決して一流とは言えなかった同楽団をさらに鍛えぬいた結果、程なく全米の「ビッグ・ファイブ」と呼ばれる第一級のオーケストラのひとつ[1] として高い評価を得るに至った。 1960年代にはウィーン、ベルリン、ロンドンなどでも客演指揮を行なった。1970年5月13日から5月27日にかけてクリーヴランド管弦楽団とともに日本万国博覧会を記念した企画の一環として来日公演(ピエール・ブーレーズが一部分担したので、セルは15、16、20、21、22、23、25、26日の8回)を行い、日本でも極めて高い評価を受け、多くの聴衆に感銘を与えたが、帰国後まもなく多発性骨髄腫のため急逝した。73歳没。 演奏スタイルジョージ・セルは厳しい練習により、クリーヴランド管弦楽団を世界最高のアンサンブルと称えられる合奏力に高めた。その正確な演奏をベースに端正で透明度の高い、均整の取れた音楽を構築し、1950年代以前は主流であったロマン派的、主観的な感情移入を行わず作品のもつ魅力を引き出した。ハプスブルク帝国に生を受け、3歳から36歳までをドイツ圏で暮らした彼にとってドイツ系レパートリーは自家薬籠中のものである。ハンガリー、スラヴ物にも優れていたが、一方でフランス、イタリア系のレパートリーは多くない。特にハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンら古典派の作品における完成美は評価が高い。さらに、優れたオーケストラ合奏によりロマン派の演奏でもいくつかの傑出した演奏を行なった。レコード録音に残るシューベルト、シューマン、ブラームス、R.シュトラウス、ドヴォルザークなどの演奏は特に優れたものといえる。 反面、あまりに精密かつ禁欲的で客観的な演奏はしばしば冷たいと評されることもあり、マーラーやブルックナーなどの演奏でそうした批判も聴かれた。 録音活動セルは戦前から没年まで幅広くレコーディング活動を行った。 戦前期戦前に行われた主な録音は以下のとおりである。
しかし、戦前期においては往年の巨匠がひしめき合っており、新進の若手であったセルの評価は必ずしも高くはなかった。「新世界」については、雑誌『ディスク』昭和14年(1939年)1月号で次のように評価されている。
戦後期手兵のクリーヴランド管とのレコーディングで、モノラル時代のものは意外と少ない。しかし、その数少ないクリーヴランド管のモノラル録音に、セルの管弦楽編曲によるベドルジハ・スメタナの弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」(1949年)が残されている。 ステレオ時代にはいると、セルとクリーヴランド管弦楽団は大量の録音を行い、世界的にその名をとどろかせた。なお、ロベール・カサドシュと共演したモーツァルトのピアノ協奏曲の録音に「コロンビア交響楽団」とクレジットされているものがあるが、これは契約上の都合によるクリーヴランド管弦楽団の変名である。 晩年の名演として、ウォルター・レッグと行なったEMI録音、例えばドヴォルザークの交響曲第8番や、シューベルトの交響曲ハ長調「グレート」、ブラームスのヴァイオリン協奏曲や二重協奏曲(ダヴィッド・オイストラフとムスティスラフ・ロストロポーヴィチとの共演)、マーラーやR.シュトラウスの歌曲(シュヴァルツコップとフィッシャー=ディースカウとの共演)などが挙げられる。特にマーラーの録音は4人の完璧主義者(4人目とはプロデューサーのレッグである)が最善を尽くした力作である。 ライヴ録音ザルツブルク音楽祭でのものを中心に、ソニーやオルフェオからリリースされている。セルのライヴ録音が多く出回るようになったのはCD時代に入ってからであるが、修正可能なスタジオ録音とは違って一発勝負の演奏ゆえ、前述のセルの(ある種紋切り型な)イメージからかけ離れた演奏を聴くことができる。むしろ、多くのライヴ録音のリリースにより「セルの演奏=完璧だが冷たい」という評価が以前ほど聞かれなくなったとも言える。というのも、残されたライヴ録音の中には、オーケストラがテンポに乗り切れないのが気になったセルが思わず指揮台を踏み鳴らしてテンポを上げさせたり(1954年6月17日録音のウィーン交響楽団とのライヴ盤、オルフェオ)、物凄いテンポで演奏するもの(1958年8月8日録音のアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団とのライヴ盤、オルフェオ)があるからである。とはいえ、そういう場合でも決定的に演奏が崩壊しないのがセルのセルたる所以であり、セルのバランス感覚が優れていたことの証拠でもある。 主要な録音特記なき場合はクリーヴランド管弦楽団[2]、ステレオ録音
ザルツブルク音楽祭とセル前述のように、第二次世界大戦後はアメリカを本拠としたセルであったが、それでも毎シーズン、ヨーロッパに戻って客演指揮活動を行っていた。その中でも、1949年に初出演したザルツブルク音楽祭とは、死の前年の1969年までほぼ密接な関係を続けた。1949年は恩師であるリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」などを指揮した。シュトラウスはこの時、ウィーン・フィルを通じてセルにプライヴェートな手紙を託していたが、音楽祭終了後の9月8日に死去した。その後もオペラ、オーケストラ双方で活躍した。 なお、ザルツブルク音楽祭での一連のオペラ指揮が、セルにとってオペラを指揮する最後となった。
作曲若いころは作曲家としても活躍していたが、現在はほとんどの作品が忘れ去られている。日本のピアニスト白石光隆によって、『3つの小品』という作品のみが録音されている。 渡米して間もないころ、自作の交響曲を指揮したことがある。 逸話
脚注注釈・出典
参考文献
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