サマンガーン州
サマンガーン州(サマンガーンしゅう、ペルシア語: سمنگان[5][4])は、アフガニスタン北部の州である。面積は1万3438平方キロメートル[2](34州中18位)、総人口は約37万人(34州中28位)[2]、人口密度は27人/平方キロ(34州中22位)である[2]。州都はアイーバク。サマンガン県[6]やサマンガン州とも。 地理日本の福島県とほぼ同じ広さの州である。四方を山脈に囲まれ、中山間地と高山が8割を占める[7]。州の南北を弧を描くようにフルム川が流れており、北部は複雑な形の盆地になっている。盆地には州都アイーバクがあり、アジアハイウェー76号線が走っている。 歴史古代→「アフガニスタンの仏教」も参照
1世紀頃のサマンガーン州はクシャーナ朝の領域だった。クシャーナ朝には表面に「ソーテール・メガス」(偉大なる救済者)と刻まれた銅貨があったが、発行した王の名は長いこと分からなかった。1993年にサマンガーン州のラバータク村で2世紀頃のカニシカ1世が残したラバータク碑文が発見され、無名王の名がヴィマ・タクトであることが分かった。クシャーナ朝は仏教国としても知られているが、1世紀から6世紀頃のサマンガーン州の人々も仏教を信仰しており、現在でもタフティ・ルスタム(英語: Takht-i Rustam)と呼ばれる仏教遺跡が残っている。これは岩を掘って作った僧院付きの仏塔(ストゥーパ)で、バーミヤーンやジャラーラーバード、ガズニーなどにある仏教遺跡と並ぶ、アフガニスタンでも最大級の物である[8]。 中世サマンガーンという名は11世紀の「シャー・ナーメ」にも登場する。シャー・ナーメはイランがイスラム化する前の神話や伝説を集めた歴史書で、主人公の一人ロスタム(またはルスタム)はサマンガーンの王女タフミーネと結婚したと言う[9]。スィースターンの王であるロスタムはサカ人、タフミーネはトゥーラーン人だったという説がある[9]。なおこの地域一帯は9〜10世紀はサーマーン朝の領域だった。 近代1845年、ドースト・ムハンマド・ハーンはアフガニスタン北部に軍を進めた。その頃のアフガニスタン北部の街はウズベク人のアミール達が支配しており、州都アイーバクもその1つだった[10]。 冷戦時代サマンガーン州は1958年から1964年頃に独立した州になった[11]。1982年から1988年頃に北部をバルフ州に割譲し、ホルム市などが移管した[11]。1988年4月、一部をサーレポル州に割譲した[11]。 アメリカ同時多発テロ事件以降2004年10月、第一回の大統領選挙が実施され、サマンガーン州ではユーヌス・カーヌーニー(約38%)が最多得票を得た[12]。2009年8月には第二回の大統領選挙が実施され、サマンガーン州ではアブドラ・アブドラ元外相が接戦を制して最多得票(約44%)を得た[13]。2012年6月、州都アイーバクで自爆テロが起き、アフマド・カーン・サマンガニ下院議員が殺害された[14]。サマンガニ下院議員が狙われたのはこれが二回目で、2007年5月にも暗殺未遂事件が起きている[15]。2012年12月、ISAF軍はサマンガーン州の治安権限をアフガニスタン軍に移譲した[6]。2014年4月、第三回の大統領選挙が実施され、サマンガーン州ではアブドラ・アブドラ元外相が最多得票(約61%)を得た[16]。 2021年8月9日、アフガニスタン軍が撤退した為、ターリバーンは州都アイーバクを占領した[17]。 行政区分1市6郡を擁する。
主要都市州都アイーバクは約10万人である。 産業農業
サマンガーン州の農業は家計収入の3分の1程度(36%)だが[7]、特にアーモンド(34州中2位)やザクロ(34州中2位)の生産量は全国的に見ても多い。また小麦(34州中10位)の生産量も比較的上位にあり、農業収入を増やす為にピスタチオの森の再生も行っている[19]。 鉱業
住民民族サマンガーン州の多数派はウズベク人とタジク人だと言われている。その他にはパシュトゥーン人、ハザーラ人、アラブ人、タタール人が続く[7]。 言語サマンガーン州の主要言語はダリー語(73%)であり、ウズベク語話者(22%)が続く[7]。識字率は23%である[7]。 宗教
主な出身者
脚注
関連事項
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