イットー
イットーとは日本の競走馬である。高松宮杯やスワンステークスの優勝馬で、1973年の優駿賞最優秀3歳牝馬、1975年に同最優秀5歳以上牝馬に選出された。繁殖牝馬としても大きな成功を収め、二冠牝馬ハギノトップレディ、宝塚記念優勝馬ハギノカムイオーらを輩出。「華麗なる一族」と称される牝系の中興の祖となった。 半弟に重賞4勝を挙げたニッポーキング(父プロント)、シンザン記念優勝馬シルクテンザンオー(父ファーストドーン)、道営記念優勝馬サクラアケボノ(父ダイコーター)がいる。 注:馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で統一して記述する。 出生・幼駒時代母ミスマルミチは重賞未勝利ながら8勝を挙げた実力馬であり、繁殖初年度となった1970年も、本来は競走生活を続行する予定だった。しかし先に繁殖入りしていた半姉ヤマピット(第28回オークス優勝馬)がわずか1頭の産駒(ボージェスト)しか残さず早世したことを受け、5歳シーズンいっぱいで急遽引退、繁殖入りとなった[1]。交配されたヴェンチアは前年にフランスから輸入され、日本での供用初年度という新進種牡馬だった。 翌1971年4月19日にミスマルミチは牝駒を出産する。荻伏牧場社長の斎藤隆が、「出産補助のために仔馬の両前脚を掴んだ瞬間『これはただものではない』と直感した」と語る[2]ほどの好素質馬であった。荻伏牧場は生産馬を馬主に売却して生計を立てるマーケットブリーダーであったが、斎藤が惚れ込んだ本馬は、例外的に牧場所有のままで競走馬となった[3]。 馬名の由来2歳秋まで荻伏で育成が積まれ、その後栗東トレーニングセンターの田中好雄厩舎に入る。田中もまた本馬の素質に感嘆し、命名をさせて欲しいと願い出た。これを了承されると、田中は本馬に「一刀両断」からイットーと命名した[1]。この馬名の大元の発案者は歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎であり、生前田中に馬を預けていた尾上は、「一生に一頭という馬に巡り会ったら、イットーと名付けるように」と提案していた[1]。なお、当初荻伏牧場が考えていた馬名は「ヤマトゴコロ」であった[1]。 戦績最優秀3歳牝馬選出1973年11月11日、京都競馬場でデビュー。当日は3番人気の評価であったが、母にも騎乗した高尾武士を背に、2着に8馬身差の逃げ切り勝利を見せた。続く条件戦も快勝し、関西の3歳王者戦・阪神3歳ステークスに臨む。ここではキタノカチドキに突き放されて3馬身差の2着に終わり、初の敗戦を喫した。しかし当年の年度表彰では、函館3歳ステークスの勝利馬サクライワイを抑え、最優秀3歳牝馬に選出された。 アクシデントの連続翌1974年1月、4歳になったイットーは紅梅賞を6馬身差で勝ち、桜花賞優勝候補の一番手と評された。しかし競走後に左前脚骨瘤(骨膜炎の一種)を発症、さらに左肩も痛め、長期の休養を余儀なくされた。これで桜花賞、オークスともに出走機会を失い、鞍上の高尾もデビュー20年目で訪れたクラシック勝利の機会を逸した。高尾は「条件クラスの桜花賞など、私は絶対に見ません」と悔しさを語った[注 1]。当日はイットーと同父であるタカエノカオリが人気薄での勝利を収めた。 半年の温泉療養を経て、8月に復帰。緒戦のオープン特別(1700メートル)を1分42秒2のレコードタイムで勝利する。続いて秋の目標としたビクトリアカップに向け、その前哨戦となる京都牝馬特別に出走、50パーセント超の単勝支持を集めた。この競走には、一世代上の最優秀3歳牝馬キシュウローレルも出走(2番人気)し、2世代の3歳牝馬チャンピオンの対決となった。ところが、最終コーナーの手前でキシュウローレルが左前脚を骨折・転倒し、直後に位置していたイットーはこのあおりを受け、右後脚を7針縫う裂傷を負った[注 2]。 これでビクトリアカップの出走も断念。年末にはセントウルステークス(当時オープン特別競走)に出走したが、他馬を怖がる素振りを見せ[4]、3着に敗れた。イットーに相次いだ不運に、京都牝馬特別の競走後より田中が体調を崩し、高尾が厩舎管理の一端を担うようになる[4]。負担が増した高尾は、セントウルステークスを最後にイットーの騎乗を簗田善則に譲った。 復活、重賞制覇精神面の立て直しを図るために一時休養し、翌年3月に復帰。緒戦のオープン戦で前年の最優秀5歳以上牡馬タニノチカラと競り合い、半馬身差の2着となった。続くマイラーズカップでは同馬に加え、阪神3歳ステークス以来となるキタノカチドキとの対戦となり、天皇賞への一前哨戦ながら「三強対決」と注目を集めた。当日は雨中の不良馬場を好位から追走したが、先に抜け出したキタノカチドキに再び敗れる。しかしタニノチカラはハナ差競り落とし、2着を確保した。 2戦の好走で復活と目され、次走のスワンステークスでは圧倒的な1番人気に推された。レースでは好位から抜け出すと、最後は簗田が後ろを振り向く余裕を見せながら1着でゴール。10戦目にして初の重賞勝利を果たした。一重賞に過ぎない競走であったが、表彰式ではファンから大きな拍手を贈られた[5]。 次走阪急杯は3着に敗退[注 3]。しかし続いて出走した高松宮杯で新馬戦以来の逃げを見せると、重馬場ながら2分00秒2という好タイムを記録し、重賞2勝目を挙げた。 故障、引退夏の休養を経て出走したサファイヤステークス(当時オープン特別競走)を快勝。秋を迎えての朝日チャレンジカップではロングホークのレコード勝利からハナ差の2着となり、3戦目に前年アクシデントで大敗した京都牝馬特別に出走した。 他馬よりも4キログラム以上重い59キログラムの斤量を背負いながら本命に支持されたが、好位に付けた最後の直線入口地点で故障(左前脚浅屈腱劇伸)を生じ、4着に敗退した。競走中に後脚で左前脚を蹴りつけたことが原因とされ[6]、競走能力を喪失。さらに2週間後の11月12日に田中好雄が死去し、これを最後に競走生活から退いた。この年、重賞2勝の活躍が評価され、翌1月には当年の最優秀5歳以上牝馬に選出された。 全成績
繁殖牝馬として引退後は故郷・荻伏牧場で繁殖牝馬となる。初年度には荻伏が導入した種牡馬サンシーと交配され、初仔ハギノトップレディを出産。同馬は新馬戦で日本レコードタイムを出すなど快速馬として鳴らし、イットーが出走できなかった桜花賞、エリザベス女王杯(ビクトリアカップの後継競走)を制し、二冠牝馬となった。さらに、当時不動のリーディングサイアーであったテスコボーイとの産駒ハギノカムイオーは、トップレディのデビューから2週間後に開催された セリ市に上場され、当時の史上最高価格となる1億8500万円[注 4]で売却された。同馬が競走馬としても成功を収めると、以後トップレディ、カムイオーには大きく劣る競走成績であったニッポーハヤテ、ワッカオー[注 5]、サクライットー、チュニカオーといった牡駒も、相次いで種牡馬となった。カムイオーも含め、これらは種牡馬としては失敗に終わったが、ハギノトップレディは繁殖牝馬となってGI競走2勝のダイイチルビーを産み、自身とイットーの名声をさらに高めた。 イットー自身は1996年の種付け(不受胎)を以て繁殖を引退し、以後は功労馬として余生を過ごした。早世するものも多かった一族にあって長命を保ったが、1997年5月21日、発症していた蹄葉炎の悪化により安楽死の措置が執られた。27歳。 産駒一覧
その他の子孫については華麗なる一族を参照のこと。 血統表
脚注
参考文献
外部リンク |