F-80 (航空機)F-80 シューティングスター
F-80は、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍航空軍が採用したロッキード社製のジェット戦闘機。愛称はシューティングスター(Shooting Star、流星の意)。陸軍航空隊時代はP-80であったが、1948年に空軍が分離発足したため、F-80に改称された。 近代ジェット戦闘機の基本型を確立したことで高く評価され、また戦後派生した複座型練習機T-33は、各国で半世紀以上にわたり使用された傑作機である。 沿革開発アメリカ軍初の実用ジェット戦闘機である。第二次世界大戦中の1943年6月23日に開発下命、主任技師のクラレンス(ケリー)・ジョンソンは基本設計を1週間ばかりで終え[1]、僅か183日後の1944年1月8日には、イギリスから輸入したハルフォードH.1B(後のデハビランド ゴブリン)遠心式ターボジェットエンジンを搭載する、XP-80の試作第1号機がミューロック・ドライレーク(後のエドワーズ空軍基地)で初飛行した[2]。 2機目の試作機であるXP-80Aからはジェネラル・エレクトリックによるI-40に変更され(のちにJ33-GEと改称され、戦後のアリソン・エンジンによる量産型からはJ33-Aとなった)[3][2]、重量増に伴い主翼面積を拡大し胴体構造を強化するなど再設計された。 XP-80A は、既に究極的進化を遂げていたレシプロ機に対しなお優速を示し、デ・ハビランド ヴァンパイアに続く世界2番目の実用単発ジェット戦闘機として、大きな期待を寄せられた。 実戦配備第二次世界大戦(間に合わず)翌2月にはノースアメリカンへの生産依託分も含め約5,000機の大量発注を受け、1945年2月から量産型 P-80A の納入が開始されたが、飛行訓練が始まったばかりの5月には対独戦が終結し、さらに8月には対日戦も終結し大戦自体が終結したことから生産は900機強でキャンセルされ、実際には45機が配備されたに過ぎない。 1945年5月にヨーロッパ戦線のイタリアで2機が飛び、太平洋戦線では1飛行中隊が進出したアメリカ領フィリピンで訓練を重ねたのみで、第二次世界大戦中に実戦への配備はなかった。 朝鮮戦争1950年に朝鮮戦争が勃発すると、旧式化しつつあったF-80も制空任務に当初投入され、11月8日の最初の交戦ではドイツの技術を受けて開発された後退翼を持つソ連製の新鋭機MiG-15を初撃墜した[4]ものの、それ以降は対抗できず、直後に配備されたF-86に後を譲って、対地攻撃[2]や低空写真偵察に活路を見出し、総出撃数では全アメリカ軍機中最高を記録した。 特徴ターボジェットエンジンを胴体中央部に置き、機首側面のインテークから空気を取り入れて、ダクトを通じ機体後尾に排気を導くスタイルと、境界層剥離制御を兼ねて翼端に設けられた増槽(チップタンク)は、その後のジェット戦闘機の基本型を確立した。 通し桁を用いて左右翼を一体製造し、その上に操縦席部分を載せ、機体後部をボルト留めする機体分割法は、信頼性に難があった初期ジェットエンジンの整備を容易にする目的とされる。 従来の空気力学の延長線上で性急に開発されたため、高空高速時の飛行特性が劣悪で、ディープストールや離着陸時のポーポイジングなど、アンダーパワーと相俟って操縦性に相当の癖があり、特に離陸速度と失速速度の差が数ノットしかなかったが、胴体を延長した練習機型のT-33以降ではピーキーさが幾分緩和された。 エアインテークを胴体側面に設けたため、後に機首に大型レーダーを搭載した全天候戦闘機F-94へ容易に発展する事ができた。F-86戦闘機では機首正面にエアインテークを設けたため、全天候戦闘機F-86D化に手間取ったのとは対照的である。 派生型試作機
量産型
採用国性能諸元(P-80C)データの出典[5]
脚注出典
関連項目
外部リンク |