高専柔道高専柔道(こうせんじゅうどう)は、旧制高等学校・大学予科・旧制専門学校の柔道大会で行なわれた寝技中心の柔道の略称。1898年(明治31年)、東京の第一高等学校と仙台の第二高等学校の柔道部の間で行われた対抗戦に端を発する[1][2]。立ち技から直接寝技に引き込むことが認められ、優勢勝ちがないなど、講道館とはルールが異なる。柔道における三角絞めは高専柔道から生まれた技術を講道館柔道が採用した技である。 ブラジリアン柔術が注目されるにつれて、柔道の試合スタイルが近い高専柔道が再評価されている。ブラジリアン柔術界からは、寝技が重視され、レスリングやサンボと異なり、引き込んで寝技で下になってもガードポジションを取っていればスコア・ポイントが取られない、との共通性から、技術などが注目されている。政財界、文化界にも永野重雄、正力松太郎、井上靖、松前重義ら多くの人材を生み出した。高専柔道を舞台にした文学作品に井上靖の『北の海』がある。戦後は旧帝大で行われている七帝柔道が高専柔道の流れを引きついでいる。 寝技中心の柔道ルールの最も大きな特徴は、寝技において明らかに進展がないときに審判が「待て」とする規定がないことである[要出典]。寝技で膠着しても審判は「待て」をかけないので、延々と寝技の攻防が続く。一方で1934年の書籍『新柔道 寝技篇』(星崎治名)に掲載された高専柔道の大会規定では「足搦みの形になり変化なきときは之を別れしむ」とある(膝関節技の足緘については既に禁止技であった)[3]。また、「場外」という概念がなく、試合者が会場の縁で攻防していると、主審に「そのまま」と試合を止められ、試合場中央で同じ体勢に組み合って「よし」で試合再開となる。 さらに、普通の柔道は投技を掛けてもつれたときのみに寝技への移行が許されているが、高専柔道では寝技への引き込みが認められており、自由に寝技にいける。そのため、試合が始まるや、立技を掛けることなく、どちらかが引き込んで寝技になることが多い[4]。投技での一本勝ちも認められるので、立技の強者が活躍することもある。 このように寝技に特化していったのは、多人数団体戦の抜き勝負のため、各校とも白帯を多数入部させ部員の半数近くが大学から柔道を始める初心者で占めることが大きな理由であるとされる。寝技は立技よりも天賦の才に左右される部分が少なく、かつ短期間で技術の向上ができるため、寝技中心に移行していった。そして寝技の技術が異常に発達していく[5]。 また、作家の増田俊也によると、足挟み(ヘッドシザース)が禁止されていた[6]。寝技の「待て」がないので、足挟みを許していると足挟みのままの膠着が多くなるためである。増田によると三角絞はこのルールがあったからこそ、その隙をついて生れたものだとしている[6]。 入学までまったくスポーツ経験のない小柄な選手が、入学前に実績を残した既成の有名選手を卒業時に実力で抜いてしまうこともよくある。これらは寝技が研究と練習によって進歩できることを証明している[7]。 1941年以降、講道館柔道で寝技への引き込みが禁止されているのは、高専柔道の強豪校のひとつ六高が警視庁との団体戦で圧勝したり講道館紅白試合で寝技に引きずり込んで大勢を抜き去ったりする事件が続出したためである。この高専柔道の寝技偏重の姿勢を嫌った講道館がルールを変えてまで寝技の封じ込めてしまった。いかにかつての高専柔道の寝技技術が突出していたかがわかる[8]。 講道館柔道やブラジリアン柔術、総合格闘技(MMA)などで使われている三角絞など各種絞技・関節技の多くは、もともとこの高専柔道で旧制高校生や帝大生によって開発された新技術であった。のちに柔道で禁止されていた脚への関節技、膝十字なども高専柔道で開発された新技術であった。四高出身の星崎治名は地獄絞も従来、講道館にはなく高専柔道から生まれ出た技であることを1934年の自著で述べている[9]。その新技術開発合戦はとてつもなく高いレベルで争われていた。高専大会には毎年各校が新技術を引っさげて出場した[10]。 歴史
全国高専柔道大会歴代優勝校主催:京都帝大〜帝大柔道会〜帝大柔道連盟[18]
その他の高専柔道大会
全国高商柔道大会主催:全国高商柔道連盟
全国高工柔道大会主催:東京工大 大阪工大
(以降、出場資格を3年生以下に限るとともに、横浜高工は参加が認められなくなる) 関連書籍映像
脚注
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