關屋實
關屋 實[4](せきや みのる、1918年〈大正7年〉6月29日 - 1996年〈平成8年〉1月29日)は、日本の薬学者(薬品製造化学)。勲等は勲三等。学位は薬学博士(東京大学・1950年)。静岡薬科大学名誉教授、社団法人日本薬学会有功会員。姓の「關」は「関」の旧字体、名の「實」は「実」の旧字体のため、関屋 實[1](せきや みのる)、關屋 実(せきや みのる)、関屋 実[2](せきや みのる)とも表記される。 武田化学薬品株式会社、和光純薬工業株式会社を経て、神戸女子薬科大学薬学部助教授、静岡薬科大学薬学部教授、静岡薬科大学学長事務取扱などを歴任した。 概要薬品製造化学を専攻する薬学者である[3]。蟻酸アンモニウムによる還元反応の研究では、日本における先駆者とされている[3]。また、カフェインの新たな合成法を開発したことでも知られている[3]。武田化学薬品、和光純薬工業を経て、神戸女子薬科大学や静岡薬科大学にて教鞭を執り[1]、後進を育成した。静岡薬科大学の学長が急逝した際には、学長事務取扱に就任して大学を率いた。 来歴生い立ち1918年(大正7年)6月29日に生まれた[1]。長じて金沢医科大学の附属薬学専門部に進学した[1][5][† 1]。在学中は鵜飼貞二の門下として指導を受けた[2]。1940年(昭和15年)3月に附属薬学専門部を卒業した[1]。 なお、1950年(昭和25年)論文『還元的アチルアミン化』により東京大学から薬学博士の学位を授与されている[1][6][† 2][† 3]。 薬学者として1940年(昭和15年)4月[1]、武田化学薬品に採用された[† 4][† 5]。太平洋戦争終結後、武田化学薬品は和光純薬工業に改組されたが[7][† 6]、そのまま引き続き1950年(昭和25年)7月まで勤務した[5]。 和光純薬工業退職後、神戸女子薬科大学に採用され[1][5][† 7]、1950年(昭和25年)9月に薬学部の助教授として着任する[1][5]。その後、静岡薬科大学に転じ[1][5][† 8]、1953年(昭和28年)4月に薬学部の教授として着任した[1][5]。薬学部においては、薬品製造化学教室を主宰した[3][5]。薬品製造化学教室には矢内原昇[3]、伊藤敬一[3]、阿知波一雄[3]、といった教員が所属し、学生の指導に当たった。また、学長の伊藤四十二が急逝した折には、後任の学長として上尾庄次郎が選任されるまでの間、学長事務取扱を務めていた。1984年(昭和59年)3月、静岡薬科大学を定年退職した[5]。 静岡薬科大学を退職後、これまでの功績に鑑みて1984年(昭和59年)4月に名誉教授の称号が授与された[1][5]。また、これまでの功績が評価され、1991年(平成3年)には勲三等旭日中綬章が授与された[1][† 9]。1996年(平成8年)1月29日に死去した[1]。 研究専門は薬学であり、薬品製造化学をはじめとする分野の研究に従事した[3]。具体的には、医薬品の工業的生産技術の研究・開発に取り組んでいた[3]。特に蟻酸アンモニウムによる還元反応の研究で知られている[3]。この研究に日本でいち早く取り組んだことから[3]、薬学者の矢内原昇から「我が国におけるギ酸アンモニウム塩による還元反応の先駆者」[3]と評されている。また、カフェインの新しい合成法を開発したことでも知られている[3]。「加圧水素下の還元的フォルミルアミン化の研究」[5][10]の業績が評価され、1956年(昭和31年)4月には日本薬学会奨励賞が授与されている[1][10]。1983年(昭和58年)7月には宮田専治学術振興会学術賞を授与されている[1]。 学術団体としては、日本薬学会などに所属していた[1]。日本薬学会においては、1967年(昭和42年)4月に評議員となり[1]、1977年(昭和52年)4月には理事に就任しており[1]、1978年(昭和53年)4月には東海支部の支部長となった[1]。これまでの業績により、1988年(昭和63年)4月に有功会員の称号が授与された[1]。 人物
略歴
賞歴栄典著作単著寄稿、分担執筆、等
脚注註釈
出典
参考文献
関連人物関連項目外部リンク
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