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この項目では、映画監督について記述しています。英文学者の同名の人物については「鈴木重吉 (英文学者)」をご覧ください。 |
鈴木重吉(すずきしげよし、1900年6月25日 - 1976年10月8日)は、日本の映画監督・脚本家。
人物
東京市出身。傾向映画と呼ばれたプロレタリア映画を中心に1920年代から1930年代にかけて多くの作品を監督する。
1926年の『土に輝く』(松竹映画)で初監督。1930年、監督・脚本をつとめた『何が彼女をさうさせたか』がヒットし、題名が流行語ともなった。
阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画、マキノ映画、帝国キネマ、入江プロ(新興キネマ)、不二映画社、日活、東和商事映画部と渡り歩き1939年の『富貴春夢』(満映)を最後に現場から離れるが、1950年『東京ルムバ』(大泉映画)で復帰する。1954年に大映に移籍、1956年まで監督を続けた。
その後も『東京オリンピックへの道』(1963年、東宝)の構成・編集を行っている。
晩年は写真集の出版に当たった。1976年10月8日、神奈川県鎌倉市の自宅で死去。76歳[1]。
監督作品
- 土に輝く(1926年、松竹キネマ)
- 運動家(1926年、松竹キネマ)
- 運命の子(1926年、松竹キネマ)
- 人間愛(1926年、松竹キネマ)
- 霧の中の灯(1926年、松竹キネマ)
- 裸騒動記(1926年、松竹キネマ)
- 裸女(1926年、松竹キネマ)
- 曲馬団の姉妹(1926年、松竹キネマ)
- おとし穽(1926年、松竹キネマ)
- 冬休み(1927年、松竹キネマ)
- 青蛾(1927年、阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画)
- 雲雀(1927年、阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画)
- 弱虫(1927年、阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画)
- 田中宰相の少年時代(1928年、マキノ映画)
- 恋のジャズ(1929年、帝国キネマ)
- 何が彼女をさうさせたか[2][3](1930年、帝国キネマ)
- 踊る幻影(1930年、帝国キネマ)
- 子守唄[4][5][6](1930年、帝国キネマ)
- 腕(1930年、帝国キネマ)
- 愛すべく(1931年、帝国キネマ)
- 何が彼女を殺したか(1931年、新興キネマ)
- 栄冠涙あり(1931年、不二映画社)
- 熊の出る開墾地(1932年、不二映画社)
- 金色夜叉(1932年、不二映画社)
- 銀嶺富士に甦る(1933年、不二映画社)
- 青春無情(1933年、日活)
- 蒼眸黒眸(1933年、日活)
- 見染められた青年(1934年、日活)
- 潮(1934年、日活)
- 雁来紅(1934年、入江ぷろだくしょん)
- 貞操問答(1935年、入江ぷろだくしょん)
- 裏町の乾杯(1935年、第一映画社)
- 花嫁学校(1935年、新興キネマ)
- 洋上の感激(1936年、新興キネマ)
- 雷鳴(1936年、新興キネマ)
- 新月抄(1936年、新興キネマ)
- 現代日本(1937年、国際映画協会)
- 淨婚記 真砂の巻(1937年、新興キネマ)
- 淨婚記 比芙美の巻(1937年、新興キネマ)
- 小国民(1938年、新興キネマ)
- 東洋平和の道(1938年、東和商事)
- 富貴春夢(1939年、満洲映画協会)
- 東京ルムバ(1950年、大泉映画)
- 哀愁の港 やくざブルース(1950年、大泉映画)
- 新しき天(1954年、大映)
- 母千草(1954年、大映)
- お嬢さん先生(1955年、大映)
- 東京暴力団(1955年、大映)
- ブルーバ(1955年、大映)
- 豹の眼(1956年、大映)
- 青竜の洞窟(1956年、大映)
脚注
- ^ 訃報欄 鈴木重吉氏(映画監督)『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月13日朝刊、13版、23面
- ^ 杉山静夫 (03 1930). “今月の映画 「何が彼女を・・・」”. 映画と演芸 7 (3): 29.
- ^ “内外映画界ニュース”. キネマ週報 (3): 40. (02 1930).
- ^ “内外特作映画紹介”. キネマ週報 (キネマ週報社) 23: 26. (07 1930).
- ^ 三木 茂 (09 1930). “発声映画製作に関する 撮影覚え書”. キネマ旬報 (376): 77-79.
- ^ “キネマ旬報WEB”. 子守唄(1930). キネマ旬報社. 2023年11月11日閲覧。
外部リンク