鈴木政一
鈴木 政一(すずき まさかず、1955年1月1日 - )は、山梨県出身の元サッカー選手・サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー。 経歴サッカーを始めたのは中学3年の時と遅かったが、山梨県立石和高等学校、日本体育大学ではそれぞれ主将を務めた。大学時代は全日本大学サッカー選手権大会で法政大学を破り優勝も経験している。その後1977年にヤマハ発動機サッカー部(Jリーグ所属のジュビロ磐田の前身)に入団。以来、2010年まで選手・指導者時代を通して30年以上ヤマハ・磐田に在籍した(ちなみにプロ契約はしていない「サラリーマン」であった)。選手としては1982年の天皇杯に優勝している。 1984年にヤマハのコーチに就任後、1995年までヤマハでコーチ・総監督、磐田でサテライト監督を務め、その後はフロント入りしていたが、2000年6月にトップチームのコーチとして現場に復帰。9月に監督のハジェヴスキー・ギョキッツァが解任されたのを受けて監督に昇格する。現場に復帰したのがわずか3ヶ月前なので戦術面の大幅な変更はせず、ハジェヴスキーが採用した3-5-2システムを踏襲した。鈴木が監督に就任した直後に名波浩が復帰したこともあってこの年のリーグ戦残り5試合は4勝1敗の成績を残した。 2001年はFIFAクラブ世界選手権スペイン大会に出場が決まっていたことから(ただし、この大会は運営を任されていた代理店のISL社の倒産の影響で中止された)、世界と戦うためのシステムとして「N-BOX」(服部年宏、福西崇史、奥大介、藤田俊哉のMF4人を箱型に配置し、その中心に名波を置く)を考案した。このシステムが功を奏してJリーグでは圧倒的な力を示し、1stステージは優勝、2ndステージも2位となる。しかし、サントリーチャンピオンシップでは鹿島アントラーズに敗れ、ヤマザキナビスコカップでも決勝で横浜F・マリノスにPK戦の末敗退し、結局この年はここぞという試合を落として無冠に終わってしまった。 2002年には前年の悔しさを晴らすべく開幕から連勝を重ね、史上初の1st・2ndステージ制覇を成し遂げ年間王者となった。この年限りで勇退し強化部長に就任。ただし、2004年の9月から11月にかけて兼任扱いで監督に復帰した。これは、この年の2ndステージで磐田が一時最下位になるほどの不振に陥ったことで危機感を持ったフロントが、監督の桑原隆を解任し、後任が見つかるまでの暫定措置として鈴木に兼任させたというものである。このステージは結局13位に終わるが、鈴木はこのステージの勝ち点14のうち13を8試合で稼ぐ実績を残した。 2010年9月、北信越フットボールリーグ1部・AC長野パルセイロの強化本部長に就任。磐田時代とは一変し、公式戦全試合にベンチ入りして戦術面でのアドバイスを行い[要出典]、クラブのJFL昇格に貢献した。 2011年母校・日本体育大学サッカー部監督に就任。16年振りに関東大学サッカーリーグ戦2部で優勝、1部に昇格させる。また、7月には長野のアドバイザーにも就任、クラブはJFL参入1年目で2位となるなど、カテゴリーを問わず指導したチームは安定した好成績を挙げた。 2013年、2015 FIFA U-20ワールドカップ出場を目指すU-18日本代表の監督に就任。2015年より日本体育大学サッカー部の監督に再び就任し、関東大学サッカーリーグ2部で優勝し1部への昇格を果たす。 2018年、アルビレックス新潟の監督に就任。しかし、第27節終了時点で8勝5分14敗の19位と低迷したことを理由に8月7日に契約解除された。 2020年10月2日、フェルナンド・フベロの後任としてジュビロ磐田の監督に就任した[2]。2021年シーズンの磐田はJ2リーグの首位を走る好調ぶりを見せたが、同年10月に入り体調不良を訴え入院、ヘッドコーチの服部年宏に指揮を託した[3]。同年の最終戦では一時現場復帰を果たすものの、結局同年末を持って監督を退任し、クラブアドバイザーに就任する事になった[4]。 2023年8月23日、 東海学生サッカー1部リーグに所属している四日市大学サッカー部のテクニカルアドバイザーに就任[5]。 所属クラブ
個人成績
指導者経歴
フロント経歴
監督成績
タイトル監督時代DVD
脚注
関連項目外部リンク
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