越北越北(えつほく、월북、ウォルプク)とは、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治体制に共鳴し、大韓民国(韓国)を去り北緯38度線を越えることを指す。入北または脱南[1]とも呼ばれ、北朝鮮では義挙入北との呼称で、美化される。反対に北朝鮮側から韓国側に奔る行為は、越南帰順あるいは脱北と呼ばれる。ただし、脱北は北朝鮮から逃げ出すことであり、必ずしも韓国に渡る行為ではない。 概要1945年の日本の敗戦により、北緯38度線以南をアメリカ軍政庁が統治し、以北をソ連軍が立ち上げた各級北朝鮮人民委員会が統治した。統一国家樹立を目指し、多くの政治家・独立運動家が北緯38度線を去来したが、平壌に行ったまま北朝鮮に滞在し、北朝鮮政権樹立に参画した者も少なくなかった。 また、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発から1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定署名までの間に、南北の統治地域が国連軍と中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)の直接介入の結果、アコーディオンのように変化する中で、北緯38度線を越えた者も少なくない。 休戦後、李承晩政権の反共主義から逃れるためもあってマルクス主義に傾倒する知識人の越北者が存在したものの、朴憲永をはじめとする南朝鮮労働党員のように越北者の少なからずが朝鮮民主主義人民共和国建国後の政治闘争の末に粛清されている。 なお、韓国領出身者と子孫で在日朝鮮人の帰還事業により北朝鮮に移住した者や林秀卿のように一時的な北朝鮮訪問を果たした者については、基本的に越北と呼ぶことは無い。 また、韓国国民が大韓民国統一部の許可なしに越北行為を行った場合、韓国では国家保安法で取締りの対象になる。例えば林秀卿が第三国を経由して1989年に越北行為を行った際は、帰還後に国家保安法違反で逮捕され、裁判で懲役刑判決が確定している。 越北者の処遇北朝鮮の事実上の身分制度である出身成分において、越北者は1945年8月15日以前に入北した者を除き「動揺階層」あるいは「敵対階層」として「徹底した監視対象」に分類されると言われている[2][3]。特に、敵対階層に分類されると通常は平壌直轄市など主要都市への居住や要職への就職は不可能とされるが[4]、越北者に関しては以下のように処遇されることが多いとされている[5]。なお、1993年に社会安全部(警察)がまとめた「住民登録参考書」では、越北者を動揺階層に分類するとしている[6]。
かつては越北者が外国に渡航することも認められていたが、1986年に崔銀姫・申相玉(北朝鮮政府は越北者と主張したが、実際は拉致被害者)が渡航先のオーストリアで現地のアメリカ大使館に亡命する事件が発生したため、それ以降は公用であっても越北者の外国渡航は禁止された[5]。また、最高指導者(金正恩)との集合写真撮影を撮影当日になって「上層部の指示」でキャンセルされた事例もあり[5]、この点は最高指導者の地方視察に当たって「危害を加えるかもしれない」として沿道での歓迎から排除される敵対階層の者[4]と同じ扱いともいえる。 関連項目注釈
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