詹事詹事(せんじ)は、中国で秦から清までの時代にあった官職である。皇太子、皇后、皇太后の家を管理した。三者の一部にのみ置かれたり、まったくない時もあった。正式の官名は、仕える相手から「太子詹事」、勤務する宮の名から「長信詹事」などといった。 秦『漢書』「百官公卿表」によれば秦官、つまり秦の時代からあった官である[1]。 。 前漢前漢では太子、皇后、皇太后の家に置かれた[1]。顔師古によれば、置かれた場所を詹事に付けて呼んだ。長信詹事は皇太后が長信宮にいたためであろうし、『二年律令』には永巷詹事丞が見える[2]。前漢のはじめには宦官でない者が任じられ、宦官は詹事に属した。 太子の詹事には、補佐官である丞がついた[1]。属官として太子率更令と家令(太子家令)があり、それぞれに太子率更丞と家丞(太子家丞)がついた[1]。令より格下の長には、僕長(太子僕)、中盾長(中盾)、衛率長(太子衛率)、廚厩長があり、これらにもそれぞれ丞がついた[1]。かっこの名称は、『漢旧儀』逸文にある名である[3]。かっこを付けないのは『漢書』「百官公卿表」による。 皇后の詹事にも丞がついた[1]。中長秋令、私府令、永巷令、倉令、蔵令、厩令、祠祀令、食官令があり、それぞれ丞がついた[1]。 皇后のためには詹事と別に将行という官があり、景帝中6年(紀元前144年)に大長秋と改称した[4]。成帝の鴻嘉3年(紀元前18年)に、皇后の詹事は廃止され、職務と属官は大長秋に併合された[1]。 皇太后の家を掌る長信詹事は、漢の初めの『二年律令』で官秩二千石と規定された[2]。景帝中6年(紀元前144年)に長信少府と改称し、元始4年(4年)に長楽少府とまた改称した[1]。 後漢『続漢書』百官志によると詹事は宦官が就任した。 唐脚注参考文献 |