蟻川五郎作蟻川 五郎作(ありかわ ごろさく、慶応2年11月18日[1](1866年12月24日) - 昭和21年(1946年)2月1日[2])は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、陸軍軍人。陸軍少将。 経歴蟻川太郎右衛門の次男として信濃国下高井郡夜間瀬村(現在の長野県下高井郡山ノ内町)に生まれる[3][4][5]。1902年(明治35年)6月、兄・民吉方より分家する[4]。 22歳の時、上京し、湯本武比古の塾を経て[3]、1891年(明治24年)7月、陸軍士官学校(2期)を卒業[6]。歩兵第1連隊見習士官を経て[3]、1892年(明治25年)3月、陸軍歩兵少尉に任官[6]。日清戦争に従軍し功五級金鵄勲章を受章[3][4]。ついで、1899年(明治32年)12月、陸軍大学校(13期)を卒業して、陸士配属となる[7]。日露戦争時には第7師団参謀として出征し[4]、旅順攻略戦に参加[3]。その功より功三級金鵄勲章を叙勲される[4]。1909年(明治42年)10月、陸軍大佐に昇進し[6]、歩兵第50連隊長、近衛歩兵第3連隊長を歴任した。1913年(大正2年)5月、近衛師団参謀長に就任[6]。1915年(大正4年)2月、陸軍少将に昇進し[6]、歩兵第15旅団長、歩兵第8旅団長を歴任した。1918年(大正7年)7月、待命、1919年(大正8年)1月、予備役に編入された[6]。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に長野県第4区から出馬して当選、1期務めた。当選時点では無所属であったが[8]、立候補の段階より憲政会からの出馬と報じられており[9]、議会開会時には憲政会に所属している[10]。その他、帝国飛行協会総務理事を務めた[2]。 太平洋戦争が激しくなると東京牛込の自宅から角間温泉に疎開し、戦後は下高井郡中野町(現・中野市)に住んだ[3]。 著作
栄典
脚注
参考文献
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