肥下の戦い(ひかのたたかい)は、紀元前233年に発生した、秦が趙に大敗した戦い。
背景
紀元前234年、秦の将軍の桓齮が秦軍を率いて平陽で趙軍を大敗させた。趙の将の扈輒を討ち取り、10万の兵を斬首した[2][3]。
紀元前233年、桓齮は秦軍を率いて東の上党に進軍し、太行山を越えて趙の深部に侵入し趙軍を破り、赤麗と宜安[4]を占領した。秦軍が邯鄲に迫り、趙の幽繆王は北部の国境の防衛を担っていた名将の李牧を南下させ、趙の全軍を率いて秦軍を攻撃することを命じた。
経過
李牧率いる趙軍と桓齮の率いる秦軍は宜安付近で対峙した。激しい戦いの末に、秦軍は大敗した。桓齮の率いる秦軍のうち少数は包囲から脱し、秦国へ退却した。桓齮は敗走し、一説では李牧に討たれたとされる[5]。趙は秦に占領されていた土地を取り戻し、李牧は武安君に封じられた[6][7][8][9]。
影響
肥下の戦いは秦の統一戦争での秦の初めての敗北であった。その後、秦軍は番吾の戦いでも李牧率いる趙軍に大敗を喫した。そのため、秦の将軍の王翦は趙の郭開に賄賂を送り幽繆王に讒言させ、李牧を誅殺するように仕向けた[10]。
脚注
- ^ 現在の河北省石家荘市晋州市の西
- ^ 『史記』秦始皇本紀「十三年,桓齮攻趙平陽,殺趙将扈輒,斬首十万。王之河南。正月,彗星見東方。十月,桓齮攻趙。十四年,攻趙軍于平陽,取宜安,破之,殺其将軍。桓齮定平陽、武城」
- ^ 『史記』廉頗藺相如趙奢李牧列伝「七年,秦破殺趙将扈輒于武遂,斬首十万。趙乃以李牧為大将軍,撃秦軍于宜安,大破秦軍,走秦将桓齮」
- ^ 現在の河北省石家荘市藁城区の南西
- ^ 戰國策 巻二十一 趙策四
- ^ 《資治通鑑 巻六 秦紀一》:桓齮伐趙,敗趙將扈輒於平陽,斬首十萬,殺扈輒。 〔冬,十月,桓齮復伐趙〕桓齮伐趙,〔殺其趙將〕,取宜安、平陽、武城。〔趙王以李牧為大將軍,戰於宜安、肥下,秦師敗績,桓齮奔還。趙封李牧為武安君〕。
- ^ 《史記 巻六 秦始皇本紀 第六》:十三年,桓齮攻趙平陽,殺趙將扈輒,斬首十萬。王之河南。……十月,桓齮攻趙。十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,破之,殺其將軍。桓齮定平陽、武城。
- ^ 《史記 巻八十一 廉頗藺相如列傳》:後七年,秦破殺趙將扈輒於武遂,斬首十萬。趙乃以李牧為大將軍,撃秦軍於宜安,大破秦軍,走秦將桓齮。封李牧為武安君。
- ^ 《史記 巻四十三 趙世家》:二年,秦攻武城,扈輒率師救之,軍敗,死焉。三年,秦攻 赤麗、宜安,李牧率師與戰肥下,卻之。封牧為武安君。
- ^ 《戰國策 巻二十一 趙策四》:秦使王翦攻趙,趙使李牧、司馬尚御之。李牧數破走秦軍,殺秦將桓齮。王翦惡之,乃多與趙王寵臣郭開等金,使為反間,曰:「李牧、司馬尚欲與秦反趙,以多取 封於秦。」趙王疑之,使趙葱及顔聚代將,斬李牧,廢司馬尚。 後三月,王翦因急撃,大破趙,殺趙軍,虜趙王遷及其將顔聚,遂滅趙。