楊 端和(よう たんわ/よう たんか、生没年不詳)、もしくは楊翁子は、中国戦国時代の秦の将軍。秦王政(後の始皇帝)に仕えた。
経歴
秦王政9年(紀元前238年)、魏の衍氏を攻めた(衍氏の戦い)[1]。
秦王政11年(紀元前236年)、王翦・桓齮とともに趙の鄴を攻めた(鄴の戦い)[2]。
秦王政18年(紀元前229年)、河内の兵を率いて趙の首都である邯鄲を囲む。翌年、王翦と羌瘣が趙を平定した[3]。
秦始皇元年(紀元前221年)、五大夫の爵位を受ける。
秦始皇7年(紀元前215年)、蒙恬と共に50万の兵を率いて城を築き、匈奴に対抗した[4]。
史料
脚注
- ^ 『史記 秦始皇本紀』楊端和攻衍氏
- ^ 『史記 秦始皇本紀』始皇十一年王翦、、桓齮、楊端和攻鄴、取九城。
- ^ 『史記 秦始皇本紀』始皇十八年、大興兵攻趙、王翦将上地、下井陘、端和将河内、羌瘣伐趙、端和囲邯鄲城。
- ^ 《淮南子·人間訓》秦皇挟録図、見其伝曰:「亡秦者、胡也。」因発卒五十万、使蒙公、楊翁子将、築修城。西属流沙、北撃遼水、東結朝鮮、中国内郡挽車而餉之。