耆英 (船)
耆英(きえい、中: 耆英、英: Keying キーイン)は3本マスト、800トンの福州ジャンク貿易船である。1846年から1848年にかけて、喜望峰を回ってアメリカやイギリスまで航海したことで知られる。 耆英は1846年8月に香港のイギリス人ビジネスマンによって、清国船を外国人に売ることを禁じた当時の清の法律を無視して秘密裏に購入された。この船は満州人の官僚であった耆英にちなんで名づけられた。そして12人のイギリス人水夫と30人の中国人水夫(全員が広東人だった)を乗せ、イギリス人船長チャールズ・アルフレッド・ケレットが指揮を行っていた。航海の概略は以下の通りである。
アメリカ訪問耆英はニューヨークを訪れた最初の清国船だった。この船は1847年7月にマンハッタン島の南端のバッテリーに、盛大なファンファーレに迎えられながら投錨した。この航海について耆英の水夫は腹を立てていたが、それは理解できるもので、なぜなら彼らは香港からシンガポールとバタヴィアへ向かう8週間の航海契約にサインしただけであった。26人の水夫が当地で船を下り、広東に戻るカンダス(Candace)号に乗船した。カンダス号は1847年10月6日に清国へ出帆した。耆英は当地に数か月とどまった。1日あたり4000人にも及ぶ観衆が25セントを払って耆英に乗船し、船のデザインやクルーを見て回った。アメリカの有名な興行師であったP・T・バーナムはニュージャージー州のホーボーケンに耆英の複製を作り(彼はそれを清国から引っぱって来たと言っていた)、恐らく幾人かは耆英の水夫も混じっていたのではないかと思われるクルーとともに公開していた。しかし当時のブルックリン・イーグル紙(en)によると、バーナムの雇ったクルー達は「3分の1が白人、3分の2が黒人もしくはムラート」と書かれているので耆英の本物の水夫はいなかった可能性もある。 また、1847年のボストン・イブニング・トランスクリプト紙(en)にとると、耆英は1847年11月にチャールズ・リバー・ブリッジを通ってボストンへ寄港したとされる。耆英が到着すると、感謝祭に集まった4、5千人を含む多くの群衆が詰めかけた。 イギリス訪問耆英は次にイギリスに向かった。2月28日の暴風で、搭載していた2隻のボートが壊れた他、 前檣(ぜんしよう)帆が破れ、硬木に鉄張りした舵が使えなくなった。この蝶番などではない中国独自の方法で作られた舵の修理の際、二等航海士が溺死してしまった。 耆英の来訪は新聞記事で速報された。
耆英は1848年3月にイギリスに到着し、来航に敬意を表してメダルが作られた。メダルには以下のような文言が刻まれていた。
耆英はイギリスにおいて、その耐航性が優れており、実際に自身の限界を超えて見せたとして賞賛された。
大勢の人々が船を訪れ、その中にはヴィクトリア女王やその他のイギリス王室の一員も含まれていた。1848年7月29日のイラストレイテド・ロンドン・ニュースの紙面には以下のように、耆英への訪問について書かれている。
タイムズ紙もまた耆英への訪問をレポートしている。
耆英はチェシャー州ロックフェリーのクリッピン&フォスター社に売られ、ロンドンからマージー川に蒸気タグボート、シャノン号によって牽引された。到着は1853年5月14日だった。そしてロックフェリー引上げドックに一般公開のために係留された。[1]1853年7月29日から耆英は、外国の港へ3週間後に出発するための準備に入った。しかし、それに代わって「学術調査のための」解体がレッドヘッド、ハリングそしてブラウンの造船所で行われた。 耆英のその後はプリマス・アンド・デボンポート・ジャーナル紙が1855年12月6日木曜日の紙面で以下のように報じている。
記念展示耆英の大型模型が香港海事博物館に展示されている。この模型は当時の資料と伝統的な福州ジャンクの調査に基づくイメージをもとに造られた。縮尺は12分の1で、有名な航海を行う以前に既に使い古された船であったことから、意図的に古めかしく作られている。 脚注
参考文献
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