篠原保之篠原 保之(しのはら やすゆき、享保18年(1733年) - 寛政9年3月8日(1797年4月4日))は、江戸時代中期から後期にかけての加賀藩士。家老・若年寄・前田斉敬御用主附[1]。通称は弥助、主水、織部。石高は4000石。家紋は左三つ巴。菩提寺は桃雲寺で、戒名は円月院殿春山道清居士。 篠原本家[2]第6代当主。正室は、加賀八家・前田孝貞の次男、前田孝和の娘、真光院殿戒月慧忍大姉。 生涯父は第5代当主・篠原幸昭。母は加賀八家筆頭・前田直堅(近江守)の娘で、加賀騒動の一方の渦中の人物前田直躬の姉にあたる。篠原織部保之は、加賀騒動の余波が続く中、藩主前田重教・治脩に仕え、幕府が田沼時代という時代の転換期に藩政の中枢を担った。宝暦4年(1754年)、新堂形請取火消。宝暦5年(1755年)、如来寺請取火消。宝暦10年(1760年)4月、公事場奉行、御奏者番。明和4年(1767年)9月、寺社奉行。明和8年(1771年)10月、若年寄。安永2年(1773年)2月、家老兼若年寄。天明6年(1786年)10月、前田斉敬御用主附。寛政9年(1797年)3月8日に死去した。桃雲寺で葬儀が執り行われ、野田山墓地[3]に葬られた。 脚注参考文献 |