第1期本因坊戦第1期本因坊戦(だい1きほんいんぼうせん)は、本因坊の名跡を継承する者を選手権制で決定する棋戦、正式名称「本因坊名跡争奪・全日本専門棋士選手権大手合」、別名「本因坊位継承戦」として、日本棋院により1939年6月から開始され、1941年7月まで行われた。トーナメント成績上位2名の関山利一、加藤信による六番勝負の結果3勝3敗となり、トーナメント上位の関山利一が選手権制第1期本因坊位に就いた。また全参加者が互先コミ出し制で対局する日本で最初の棋戦ともなった。 開催の経緯江戸時代以来日本の囲碁界の第一人者は、本因坊家、安井家、井上家、林家の家元四家の中から選ばれる名人であり、昭和初期当時には1914年(大正3年)に就位した二十一世本因坊秀哉がその地位にあった。これは終身制であって、死去か引退するまではその地位は変わらない権威として存在しており、将棋においても同様の名人位制度がおかれていた。 一方で時代は真の実力第一人者を求める世論も勃興しており、東京日々新聞の学芸部長阿部真之助は、囲碁と将棋の名人位を決める選手権戦を行い、東京日々新聞と大阪毎日新聞が主催することを1934年に企画した。将棋においては十三世名人関根金次郎が1937年に引退するとし、1935年から日本将棋連盟による名人戦を創設して成功を見る。囲碁界では本因坊秀哉が、これを「本因坊戦」として本因坊家の名跡の継承者を決定するという意向を出した。「本因坊」も江戸時代以来家元第一の弟子による世襲で継承されてきた名跡であり、明治以降も碁界第一の権威を持つ家元として継続していたが、日本棋院、本因坊一門、毎日新聞の間で「本因坊戦」として実施する方針がまとまる。本因坊家の名跡は日本棋院に譲渡される形となり、毎日新聞が秀哉に権利金5万円を支払い、毎日新聞と日本棋院の契約金は4万5千円で、1937年からその第1回が開催された。 この交渉の途中の1934年、毎日新聞では準備的な棋戦として「全日本囲棋選手権大会」を開催する。当初は参加全棋士が互先コミ出し制で対局するという案だったが、棋士の反対により段位差に基づく手合割での対局となり、向井一男四段が優勝(準優勝呉清源)、続く第2期は久保松勝喜代六段(準優勝村島誼紀)が優勝した。この結果から、本因坊戦では低段者の予選を勝ち抜いた者が高段者と互先で対局するという方式が考案された。 続いて本因坊戦開始の前段階として、本因坊秀哉の引退のための記念対局が行われた。対戦相手を決める予選手合が1937年1月から開始、これは互先コミ出し制で行われ、木谷實七段が優勝し、引退碁は1938年6月から12月にかけて行われ、木谷の5目勝で終わる。またこの予選の途中で加藤信七段が、師の広瀬平治郎の意向も受けてコミ出し制に反対する自説を毎日新聞に掲載させ、「コミ碁は碁にあらず事件」と呼ばれた。 1939年6月に本因坊秀哉と門下一同による、本因坊家継承継承の為の選手権についての声明書が発せられ、6月12日に日本棋院において創定式を開催、来賓として鳩山一郎、東京日々新聞会長高石眞五郎らが出席した。また本因坊秀哉は、予選開始の後の1940年1月に他界した。 方式
結果甲組四段トーナメント高橋重行、中村勇太郎、中川新、高川格、田中不二男、向井一男の6名が参加。優勝の向井と、高橋が勝ち抜き。
五段級トーナメント都谷森逸郎(棋正社、満州から参加)、藤沢庫之助、村島誼紀、篠原正美、山口賛石(井上家)、長谷川章、渥美六郎、吉田操子が参加。村島、篠原が上位2名。
六段級トーナメント林有太郎、木村廣造、小野田千代太郎、岩本薫、細川千仭、橋本宇太郎、光原伊太郎、呉清源、久保松勝喜代、前田陳爾、関山利一が参加。呉、久保松、前田、関山が上位4名 六段級第一次
六段級第二次
最終トーナメント
総得点
決勝六番勝負1941年2-7月に行われた。
(△は先番) 6局とも先番勝ちの3勝3敗となり、規定により予選成績上位の関山利一が優勝、本因坊利仙の号を贈られた[1]。 第1期本因坊名跡継承式は、1939年9月10日に日本棋院にて約300人が参集して開催された。式は神前形式で行われ、日本棋院総裁の牧野伸顕(代行大倉喜七郎副総裁)からの免許状が授与された。これ以後本因坊戦は、大手合と並ぶ日本棋院の二大行事として定着することとなった。 脚注
参考文献
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