竹村信夫
竹村 信夫(たけむら のぶお、1900年7月4日 - 1982年9月2日)は、日本の元俳優である[1][2][3][4][5][6]。本名は岡林 信雄(おかばやし のぶお)、別芸名竹村 鉄二(たけむら てつじ)[1][2][6]。竹村 信雄、竹村 信男と表記した時代もある[1][3]。「猛闘劇」と呼ばれたサイレント映画『恋は死よりも強し』、『赤熱の力』、『鉄拳縦横』などに主演し、1920年代、鈴木伝明、高田稔、浅岡信夫、広瀬恒美らとならぶ「活劇スター」として知られる[7]。 人物・来歴1900年(明治33年)7月4日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[1][2]。出生地については、高知県高知市の説もある[8]。 1920年(大正9年)、横浜・元町の大正活動写真(のちの大正活映)に設立とともに入社、栗原トーマスに師事して演技を学び、同年11月19日に公開された同社の第1回作『アマチュア倶楽部』に出演し、満20歳で映画界にデビューした[1][2][3]。同作においては「竹村 信雄」とクレジットされている[3]。山本嘉次郎の回想によれば、当時の竹村は俳優というよりもおもに撮影助手を務めており、「酒にも女にも困らず」青春の日々を謳歌していたという[9]。当時の同社の仲間は山本のほか、高橋英一(のちの岡田時彦)、内田常次郎(のちの内田吐夢)、栗井饒太郎(のちの井上金太郎)らがいて、つねに獏与太平(のちの古海卓二)と紅沢葉子夫妻の本牧十二天(現在の横浜市中区本牧)の家に入り浸っていたという[9]。1921年(大正10年)9月、大活が撮影所を一時閉鎖、製作を休止すると、獏・紅沢夫妻、岡田時彦、内田吐夢、井上金太郎、二川文太郎、江川宇礼雄らとともに京都に移り、牧野省三が日活から独立して始めた牧野教育映画製作所に移籍した[1]。 1923年(大正12年)6月1日、マキノ映画製作所が設立されると、本格的に俳優業に専念し、井上金太郎監督の『迷宮の鍵』等で主演した[1][3]。1924年(大正13年)7月、マキノ映画製作所が東亜キネマに吸収されると、東亜の甲陽撮影所に異動し、1925年(大正14年)6月、牧野省三がマキノ・プロダクションを設立した後もマキノには戻らず、東亜キネマ甲陽撮影所に残留した[1][3]。『恋は死よりも強し』(監督坂田重則、1925年)、『赤熱の力』(監督細山喜代松、1926年)、『鉄拳縦横』(監督米沢正夫、1927年)等に主演し、鈴木伝明、高田稔、浅岡信夫、広瀬恒美らとならぶ「活劇スター」と呼ばれた[7]。 1929年(昭和4年)には、東亜キネマを退社して日活太秦撮影所に移籍、同年に公開された内田吐夢監督の『生ける人形』に「竹村 鉄二」の名で出演、翌1930年(昭和5年)には同社を辞めている[3]。1932年(昭和7年)、松竹蒲田撮影所に入社、「竹村 信夫」の名に戻って、同年1月14日に公開された佐々木康監督の『夜はお静かに』に主演しているが、同作が最後の出演作品となった[3]。 1982年(昭和57年)9月2日午後8時、敗血症のため、大阪府大阪市南住吉の阪和病院で死去した[2][8]。満82歳没。 フィルモグラフィ特筆以外すべてクレジットは「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[5][10]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 大活すべて製作・配給は「大正活映」、すべてサイレント映画、すべて「竹村信雄」名義である[3][4]。 マキノ映画製作所等持院撮影所すべて製作は「マキノ映画製作所等持院撮影所」、すべて配給は「マキノ映画製作所」、すべてサイレント映画である[3][4]。
東亜キネマ甲陽撮影所特筆以外すべて製作は「東亜キネマ甲陽撮影所」、すべて配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[3][4]。
東亜キネマ京都撮影所すべて製作は「東亜キネマ京都撮影所」、すべて配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[3][4]。
日活太秦撮影所すべて製作は「日活太秦撮影所」、すべて配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][6]。すべて「竹村鉄二」名義である[3][6]。
松竹蒲田撮影所すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、すべて配給は「松竹キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[3][4]。
トーキー
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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