稲村豊二郎
稲村 豊二郎(いなむら とよじろう、1891年(明治24年)1月17日[1] - 1972年(昭和47年)1月10日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級[2] 経歴1891年(明治24年)に群馬県で生まれた[1]。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第37期卒業[1]。1935年(昭和10年)に関東軍参謀に就任し[2]、1937年(昭和12年)に陸軍兵器本廠附となり[2]、1938年(昭和13年)3月1日に陸軍歩兵大佐に進級[2]。12月10日に第106師団参謀長に転じ[2]、日中戦争に出動。南昌作戦で指揮を執った[1]。 1940年(昭和15年)4月17日に留守第6師団参謀長に就任し[2]、12月2日に陸軍少将に進級[2]。1941年(昭和16年)8月1日に北部軍兵務部長[1]、10月21日に駐蒙軍参謀長と歴任し[1]、1942年(昭和17年)に樺太混成旅団長に着任した[1]。1944年(昭和19年)6月27日に陸軍中将に進級し[2]、10月14日に東部軍司令部附となり[3]、10月26日に留守第53師団長に就任した[1]。1945年(昭和20年)4月に第153師団長に親補され[1]、三重県宇治山田で終戦を迎えた[1]。同年10月3日には北陸第2上陸地支局長に就任[4]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。 栄典
脚注参考文献
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