石川名足
石川 名足(いしかわ の なたり)は、奈良時代の公卿。御史大夫・石川年足の子。官位は従三位・中納言。 経歴天平宝字5年(761年)従五位下・下野守に叙任される[2]。その後淳仁朝から称徳朝にかけて、伊勢守・備前守・大和守と地方官を歴任する。特に称徳朝後半は陸奥鎮守将軍・陸奥守と蝦夷征討の任にも当たっている。またこの間、天平宝字8年(764年)従五位上、天平神護2年(766年)正五位下、神護景雲元年(767年)には伊治城築城の功労により正五位上と、称徳朝にて順調に昇進している。 光仁朝に入ると、宝亀2年(771年)兵部大輔次いで民部大輔と京官に復し、いわゆる三十八年戦争と呼ばれる蝦夷征討の時代が始まる前に、名足は蝦夷征討の任務を離れている。宝亀4年(773年)従四位下に昇叙されると、光仁朝では大宰大弐・右大弁と要職を歴任し、宝亀11年(780年)参議に任ぜられ公卿に列した。なお、光仁朝にて編纂が開始された『続日本紀』の作成に淡海三船・当麻永嗣らとともに参画しているが、編纂作業は以前の下書きに因循して十分に整えることができず[3]、生前には完成しないまま菅野真道等に引き継がれている。 天応元年(781年)桓武天皇の即位に伴って従四位上に叙せられると、延暦元年(782年)正四位下、延暦2年(783年)正四位上、延暦3年(784年)従三位と、桓武朝の初頭に急速な昇進を果たし、延暦4年(785年)中納言に至る。 延暦7年(788年)6月4日薨去。享年60。最終官位は中納言従三位兼兵部卿皇后宮左京大夫大和守。 人物見聞きしたことの多くを記憶できた上に、弁舌も巧みで、加えて物事の是非を滞りなく判断できた。しかし、性格は非常に偏狭かつ短気で、好んで他人の過ちを問い詰めた。官人から政務の報告を受ける際に意に沿わない事があると、名足はすぐに口を極めて罵倒したために、太政官に伺候する官人は名足が政務を聴取しているところに出会うと、多くは身を屈めて避けたという[4]。 官歴『続日本紀』による。
脚注参考文献関連事項 |