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田中久寿男

田中 久寿男
1955年撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 佐賀県佐賀市
生年月日 1935年4月24日
没年月日 (2001-02-24) 2001年2月24日(65歳没)
身長
体重
178 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手内野手外野手
プロ入り 1955年
初出場 1956年
最終出場 1969年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

田中 久寿男 (たなか くすお、1935年4月24日 - 2001年2月24日[1])は、佐賀県佐賀市出身のプロ野球選手投手内野手外野手)・コーチ

経歴

佐賀工業高校から東洋高圧大牟田を経て、投手として1955年西鉄ライオンズへ入団[1]

2年目の1956年に4月15日の近鉄ダブルヘッダー第2試合(大阪)にて初登板で先発投手を任されるが、打者2人に1安打1四球で1死も取れずに降板。シーズン中盤には野手に転向した[1]。3年目の1957年には河野昭修一塁手のレギュラーを争い、三塁手外野手としても起用され、同年は50試合に先発出場。1958年巨人との日本シリーズでは全7戦中5戦に先発出場するが、19打数3安打と活躍できなかった。1960年には7試合に四番打者として起用されるなど打線の中軸に定着し、自己最多の15本塁打を放つ。1961年には主に三番打者、右翼手として打率.306(ベストテン6位)・12本塁打を記録し、自身唯一のオールスターゲーム出場も果たす[1]中西太が故障し、豊田泰光がチームを離れた後の中心打者と目され、1963年の巨人との日本シリーズでは第4戦(後楽園)で中村稔から本塁打を放つ。1964年には2度目の規定打席(18位、打率.265)に到達、強肩でも知られ同年は14補殺を記録した。1965年には故障もあって調子を崩し、球団の経費節減策や外国人中心の打線編成もあって、同年オフにに船田和英とのトレードで読売ジャイアンツへ移籍[1]

巨人ではON砲に続く五番打者への定着が期待されたが、1966年は故障がちで出場機会も少なく、打率.227、1本塁打に終わる。1967年は同年に西鉄から移籍してきた高倉照幸がシーズン中盤に故障したこともあり、8月から左翼手や右翼手に起用されて41試合に先発出場。8月6日のサンケイ戦(神宮)で通算1000試合出場を達成し、石岡康三から本塁打を放つなど2打数2安打1打点と活躍。8月19日の中日戦(後楽園)では1-1の同点で迎えた9回裏の1死2、3塁の場面、国松彰の代打に当日は登板のなかった金田正一を送るが、中日は金田を敬遠[2]。満塁となった場面で打席に立った田中は板東英二からサヨナラ満塁本塁打を放つ[3]。シーズンでも打率.291と好調を維持してチームのリーグ3連覇に貢献し、9月には巨人の第33代四番打者として2試合に出場。同年の阪急との日本シリーズは第1戦のみの出場に終わった。1968年になると、高田繁の入団や末次民夫の台頭により出場機会が激減し、同年オフに柳田俊郎との交換トレードで西鉄へ復帰[1]。しかし、西鉄でも出場機会に恵まれず、1969年限りで現役を引退[1]

引退後は西鉄→太平洋で一軍コーチ(1970年 - 1971年)→二軍コーチ(1972年 - 1973年)→一軍打撃コーチ(1974年)→スカウト(1975年)、ロッテで二軍コーチ(1976年)→九州地区担当スカウト[4]1977年 - 1994年)→チーフスカウト(1995年 - 2000年)を歴任[1]

ロッテ時代は1年だけ単身赴任し[4]、球団が考えてくれた九州地区担当スカウトで西村徳文堀幸一前田幸長[4]大塚明サブローの獲得に貢献。

退団後の2001年2月24日に急性肝臓ガンのため死去。65歳没。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1956 西鉄 1 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 2 0.0 1 0 1 0 0 0 0 0 0 0 ---- ----
通算:1年 1 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 2 0.0 1 0 1 0 0 0 0 0 0 0 ---- ----

年度別打撃成績

















































O
P
S
1956 西鉄 36 43 38 4 8 0 1 1 13 3 0 0 0 0 3 0 2 9 0 .211 .302 .342 .644
1957 95 179 171 18 42 6 1 4 62 21 4 5 0 1 3 0 4 37 7 .246 .275 .363 .638
1958 94 254 234 23 58 10 2 6 90 25 8 5 0 1 14 0 5 62 6 .248 .304 .385 .689
1959 90 277 260 20 57 7 4 3 81 27 3 3 1 0 12 0 4 44 7 .219 .264 .312 .576
1960 90 337 321 46 85 10 3 15 146 44 6 3 1 2 9 0 4 35 14 .265 .293 .455 .748
1961 125 500 471 65 144 12 5 12 202 58 19 9 3 2 18 1 6 58 18 .306 .339 .429 .768
1962 85 308 283 31 82 11 2 5 112 29 5 9 2 1 19 1 3 44 12 .290 .341 .396 .737
1963 110 395 371 38 85 16 1 5 118 28 5 7 1 2 17 0 4 55 12 .229 .270 .318 .588
1964 128 482 445 55 118 13 2 13 174 47 23 13 6 2 26 0 3 55 13 .265 .310 .391 .701
1965 62 183 169 14 38 5 0 2 49 15 1 6 4 2 6 0 2 35 4 .225 .260 .290 .550
1966 巨人 53 117 110 6 25 2 0 1 30 6 0 2 1 0 5 0 1 24 1 .227 .267 .273 .540
1967 74 186 165 23 48 9 1 8 83 24 1 2 3 1 14 0 3 32 1 .291 .357 .503 .860
1968 38 56 53 3 9 1 0 1 13 3 0 1 0 0 3 0 0 14 0 .170 .214 .245 .460
1969 西鉄 28 52 47 2 6 0 0 0 6 1 2 0 0 0 3 0 2 5 1 .128 .212 .128 .339
通算:14年 1108 3369 3138 348 805 102 22 76 1179 331 77 65 22 14 152 2 43 509 96 .257 .300 .376 .676
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

節目の記録
  • 1000試合出場:1967年8月6日 ※史上127人目
その他の記録

背番号

  • 28 (1955年 - 1965年)
  • 9 (1966年 - 1968年)
  • 27 (1969年)[5]
  • 30 (1970年 - 1972年)
  • 73 (1973年 - 1974年)
  • 90 (1976年)

脚注

  1. ^ a b c d e f g h プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、339ページ
  2. ^ 金田は打者としても強打者で、これまで7度の敬遠もあった
  3. ^ 講談社宇佐美徹也著「日本プロ野球大鑑」615ページ
  4. ^ a b c 森山真二「わが青春の平和台」海鳥社1998年8月1日ISBN 978-4-87-415246-1、p147。
  5. ^ “内海が背負う「27」の不思議な縁 炭谷から受け継ぎ、巨人からの移籍組で4人目”. パ・リーグ インサイト. (2018年12月21日). https://insight.official-pacificleague.com/news/10091 2020年3月18日閲覧。 

関連項目

外部リンク

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