狩野尚信狩野 尚信(かのう なおのぶ、慶長12年10月6日(1607年11月25日) - 慶安3年4月7日(1650年5月7日))は江戸時代初期の狩野派(江戸狩野)の絵師。竹川町狩野家(木挽町狩野家)の祖。狩野孝信の次男で探幽の弟、安信の兄。妻は狩野甚之丞の娘、子に常信。通称は主馬、自適斎、卜隠と号した。 略歴慶長12年(1607年)、京都に生まれる。父は狩野孝信、母は佐々成政の娘。探幽は兄、安信は弟で、姉妹は狩野信政、神足高雲(常庵)に嫁いだ。また狩野寿石は甥(大甥とも)、久隅守景の妻国は姪、江戸幕府3代将軍徳川家光の正室(御台所)鷹司孝子は母方の従姉に当たる[1]。 幼少期は父に頼まれた狩野興以に兄や弟と共に絵の教育を受けたという[2]。元和4年(1618年)に父が亡くなると、5歳年長の兄探幽は既に別家したため、尚信が父の跡を継ぐことになる。元和9年(1623年)の家光上洛の際に17歳でお目見えし、家光から絵事を申しつけられ幕府の御用絵師になった[3][4]。同年に従兄の宗家当主狩野貞信が死亡、子が無かったため弟の安信が宗家を継いだ際、安信を盛り立てることを誓った誓約書では4番目に署名した(前の3人は狩野長信・探幽・狩野甚之丞、後の3人は狩野新右衛門・狩野元俊・興以)[5][6]。大坂城本丸御殿の大広間・対面所・白書院といった主要な部屋の障壁画を描き(慶応4年(1868年)の火災で現存せず)、寛永3年(1626年)に二条城行幸御殿と二の丸御殿黒書院の障壁画を制作した[4][7][8]。 兄に続き、寛永7年(1630年)に江戸に召され竹川町に屋敷を拝領、竹川町狩野家の祖となる[3][9][10]。従叔父に当たる狩野甚之丞の娘と婚姻し、息子・常信が生まれる[11]。探幽の画風を素早く習得し、大坂城、二条城、聖衆来迎寺、知恩院障壁画の制作では兄と共に参加し、その画業を補佐した[9][10]。寛永18年(1641年)に大徳寺本坊方丈と禁裏御所造営、翌寛永19年(1642年)に聖衆来迎寺客殿と知恩院方丈、正保4年(1646年)に江戸城などの寺院や城の障壁画を兄と共に制作した[4]。また正保2年(1645年)に後水尾上皇の依頼で制作した『猿猴図』は、探幽の『白衣観音図』・安信の『猿猴図』と共に作られた3幅対の合作で、相国寺に寄進され現存している[12]。 この他、寛永18年に王子神社の造営を描いた『若一王子縁起絵巻』3巻を制作(原本は不明、模本が紙の博物館と東京国立博物館などに所蔵)、源氏物語の夕顔と浮舟を描いた年代不明の『夕顔・浮舟図屏風』を制作、寛永19年頃に源氏物語から選んだ場面を3巻にまとめた作品『源氏物語絵巻』を制作した(原本は不明、模本が東京国立博物館に所蔵)。源氏物語絵巻は幕府の要請で調達されたと推測され、原本は寛永20年(1643年)の後光明天皇の践祚と、家光の嫡男徳川家綱の江戸城二の丸移徙に合わせた可能性がある。模本も重宝され、源氏物語絵巻は探幽が制作した『源氏物語図屏風』と並び江戸狩野における源氏絵図のスタンダードとして使われただけでなく、図様は他の画派や絵師達にも踏襲され、新しい規範として内外に強い影響力を発揮し続けた[13]。 慶安3年(1650年)に死去、享年44。竹川町家は常信が継いだが、探幽にとって3兄弟の一角であった尚信の死は転機とされ、以後安信と結びついて二頭体制で狩野派を牽引していった。また安信にとっても自己の様式である単調な線質による力強い表現(安信様式)を押し出していく契機になったとされ、父の様式が尚信より自分に近いと感じ、自身の個性を活かすと共に父の様式を継承する意味合いで安信様式を確立したとされる[14]。 私生活においては、ふらりと京都に旅行に出て小堀政一を訪ねたり、実際は病死したと伝えられるが、失踪して中国に行こうとした、あるいは魚釣りに出かけて溺死したという逸話が作られるなど、飄々と生きた趣味の自由人といった人柄を伝えている[10][15]。また正保3年(1646年)に大徳寺住職江月宗玩の法嗣安室宗閑に依頼して卜隠の号を与えられたことが『古画備考』に書かれている[16]。 弟子は多くなかったとされ、子の常信を除くと、林作之丞信春、狩野徳入信吉、平戸藩御用絵師・片山尚景の3名のみが挙げられている(『古画備考』)。 作風探幽の画風に多くを学びつつも、そこから一歩踏み出し、探幽以上に湿潤な墨調をもち、次男という自由な立場故か、余白や構図にも探幽を超える大胆さを垣間見せる作品が残っている。大和絵の白描技法を水墨画の人物描写に応用し、漢画の和様化に寄与した[10]。近衛家熙は『槐記』のなかで、古今に超絶したものだと高く評価している。一方、金碧障壁画の着色作品は、対象を単純化しようとする傾向が見られ、探幽が金碧画の中にも和様化を目指したのに対し、尚信は装飾化へ向かおうとしたと伝えられる[10]。ただし、尚信の代表作には障壁画以外に濃彩画が残っておらず、尚信は着色金碧画には余り興味を持たなかったとされる。 マニエリスム的傾向もあり、人物図は頬や額を出っ張らせ上半身も大きく曲げる姿勢、全体として円を連ねるかのような形態が目に付く。水墨画はラフな筆致や部分的に粗く勢いのある筆致で、作品はマニエリスムでモチーフが存在感を主張、墨色の濃淡にメリハリがあるため清新な印象がある。形態や繰り返しに関心が向く点は常信に受け継がれていった[17]。 尚信の甥で探幽の息子探信の弟子・木村探元著の『三暁庵雑志』では「探幽絵などとは違い、別て筆ずくなに書し画にて候」と評し、不出来な作品は破り捨てていたため寡作だったという[3]。現存する尚信の作品は多くはないが、江戸時代には探幽と同程度の人気があった[4]。反面、作品数は少ないため、しばしば贋作が作られるほどだった[18]。 代表作
脚注
参考資料
|