燃ゆる大空
『燃ゆる大空』(もゆるおおぞら)は、1940年(昭和15年)公開の日本映画[1]、および同作の主題歌(軍歌)。 概要大日本帝国陸軍の航空部隊(陸軍航空部隊)の支那事変(日中戦争)での活躍ならびに、戦闘機・爆撃機の操縦者(空中勤務者)として活躍する、陸軍少年飛行兵出身の若き下士官たちの戦いぶりや成長を、少飛時代の元教官にして主人公らの所属する飛行戦隊の中隊長(飛行中隊長)として赴任してきた将校との交流を絡めて描く、戦争映画である。 キネマ旬報ベスト・テン日本映画第8位[3]。特殊撮影の円谷英一(円谷英二)は日本カメラマン協会賞を受賞した[3]。 あらすじ熊谷陸軍飛行学校の教官・山本は、元気な生徒たちに毎日厳しい訓練を施し、次々に一人前の操縦者として巣立たせていった。その2年後の1938年(昭和13年)2月、山本は自らも戦闘機隊中隊長として支那事変下の北支戦線に赴き、逞しい軍人となったかつての教え子たちと再会する。田中はすでに壮烈なる戦死を遂げていたものの、行本と山村は戦闘機隊、佐藤は爆撃機隊として活躍を続けていた。再会の喜びの覚めやらぬ間に、敵地に不時着した山村を行本が強行着陸して救出するなど、戦火はいよいよ激しさを増していく。部隊は奮戦し、大なる戦果を挙げ続けるが、帰らぬ者もまた増えていった。 キャスト
スタッフ登場兵器撮影皇紀2600年記念として製作期間3年をかけて制作された[3]。陸軍省・陸軍航空本部全面協力のもと[3][2]、日中戦争当時の帝国陸軍の実物軍用機947機[3]や装備、および現役空中勤務者らが撮影に参加している。当時最新鋭の九七式戦闘機や九七式重爆撃機などが大量に使用されたほか、旧式の九五式戦闘機が中国空軍のI-15役として出演している。 飛行シーンのほとんどでは特撮やニュース映画などの既存フィルムを使い回さず、実機を実際に映画のために飛ばして撮影している点で『翼の凱歌』『加藤隼戦闘隊』と並び、評価の高い作品である。また、飛行学校での海上目標に対する機銃掃射の演習シーンや、九五戦が相手の格闘戦シーンなどでは九七戦の操縦席に撮影カメラを設置し、戦闘機操縦者の目線による臨場感のある撮影がなされている。 監督の阿部豊は、特殊技術に懐疑的であったことから実景を中心としていたが、一部のシーンは迫力不足として特撮シーンが追加された[4]。 不時着するシーンのため、ケント紙を張り合わせて制作した飛行機をロケ先でパチンコを用いて飛ばすという撮影を行ったが、崖下からカメラ3台で構えていたものの飛行機が風に乗って飛んでいってしまい、消息不明になったという[5]。 序盤では熊谷陸軍飛行学校における、少年飛行兵生徒らの訓練や生活の様子をリアルに、時にはユーモラスに描写しており、少飛の宣伝を兼ねている。また、女性の出演者が一人もいないのは当時としても特異である。長谷川一夫が飛行部隊附軍医役で出演しているのは、女性客の集客を考慮したためという。 主題歌作詞は佐藤惣之助、作曲は山田耕筰、編曲は仁木他喜雄、歌唱は霧島昇・藤山一郎。1940年5月に日本コロムビアから発売された。NHK国民歌謡にも選定され、『国民歌謡』第64集に収録された。 佐藤の明るく躍動感あふれる歌詞と、ドイツの行進曲を思わせる山田の格調高い旋律が人気を集めた。映画主題歌としては、陸軍落下傘部隊を謳った『空の神兵』などと同じく軍歌(戦時歌謡)としてもヒットし、戦後も多くの音源が制作された。レコードでは混声合唱が加わり、第三番では藤山の歌声にハミングを絡ませて効果を上げている。一方、映画本編では序盤と終盤に男声合唱版が使用されている。 その後、タツノコプロ制作の『アニメンタリー 決断』では劇中のBGMにインストが使用されたほか、中日ドラゴンズの仁村徹選手のヒッティング・マーチに冒頭の一節が使用された。 歌詞
著作権のうち、歌詞は1992年末に、曲は2015年末に失効し、パブリックドメインとなった。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |