清水隆徳清水 隆徳(しみず たかのり、1862年9月13日(文久2年8月20日[1][2][3][4])‐ 1929年(昭和4年)10月21日[1][2][5])は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・告森、筆名・山本隆徳[6]、号・鶴城[7]。 経歴伊予国宇和島城下御殿町(愛媛県北宇和郡宇和島町[3]を経て現宇和島市[2][8])[注釈 1]で、宇和島藩士・告森桑圃の二男として生まれる[1]。都筑荘蔵(鶴州)、上甲振洋の謹教堂で漢学を修めた[9]。1877年(明治10年)北予変則中学校(松山中学校を経て現愛媛県立松山東高等学校)で学び[1][2]、1881年(明治14年)大分県中津の慶應義塾支塾に入塾した[1][2]。1880年(明治13年)頃、松山の民権結社「公共社」機関紙『海南新聞』編輯長に就任[10]。1881年(明治14年)9月に上京し、1882年(明治15年)5月に千葉に移り『千葉総房共立新聞』幹事となる[11]。同年9月、東京に移った[12]。 1883年(明治16年)4月、徴兵検査のため帰省[13]。甲種合格となり告森家の二男であり徴兵を受けるのを避けるため、同年6月、西宇和郡日土村(現八幡浜市日土町)の資産家・清水利三郎[注釈 2]の養嗣子となり[1][2]、同年12月に家督を相続した[4]。養父が初代頭取を務めた[14]第二十九銀行(川之石銀行)の取締役に就任[1][2]。1887年(明治20年)頃、立憲改進党に所属し[1]、1889年(明治22年)1月、愛媛県会議員に当選し、1892年(明治25年)3月に再選された[1]。鈴木重遠から勧誘され立憲革新党に入党し[1]、1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙に愛媛県第5区から出馬して初当選[1][2][13]。1897年(明治30年)10月、県会議員に再選された[1][2]。同常置委員、同議長を務めたが[3][5]、1898年(明治31年)愛媛県農工銀行頭取に就任して多忙を理由に議長を辞し[1][2][4]、同年9月、県議も辞職した[1]。1904年(明治37年)3月、第9回総選挙に愛媛県郡部から出馬して再選[1][2][13]。1912年(明治45年)5月の第11回総選挙で再選され[1][13]、その後、立憲同志会の結成に参画[1]。1915年(大正4年)3月、第12回総選挙でも再選され[1][13]、衆議院議員に通算4期在任した[3][5][8]。1920年5月(大正9年)の第14回総選挙の立候補を辞退し、高須峯造の後任として憲政会愛媛支部長に就任した[1][2]。 その他、愛媛新報社長、伊予水力電気取締役、愛媛県貯蓄銀行重役、明正銀行重役、殖産銀行重役、愛媛鉄道重役などを務めた[1][2][3][5][8]。 国政選挙歴
論説
親族脚注注釈出典
参考文献
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