水判土
水判土(みずはた)は、埼玉県さいたま市西区の大字。郵便番号は331-0059[2]。さいたま市の難読地名の一つに数えられる[4][5]。 地理さいたま市西区南東部の大宮台地に属する指扇支台の最南端に位置する[6][7][8]。南側は鴨川や新川(古入間川)が流れ下る沖積平野(荒川低地)で、北側にも鴨川に合流する小河川が流れる谷戸の低地があり西側以外の三方を低地が取り囲んでいる。 東側を大宮区の三橋(二丁目および四丁目)、南側を中野林や飯田、西側を佐知川、北側を西区の三橋(五丁目)と隣接する。荒川の左岸側河川区域内、東京健保組合大宮運動場の敷地の東寄りに水判土の飛地がある。 土地利用として全体的には農地と住宅地が混在する。 地内に縄文期の遺跡である水判土遺跡[8]や植水古墳群に属する小山稲荷古墳や山王塚古墳[7]がある。 歴史もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡植田谷領に属する水判土村で、古くは水判土荘内野郷に属していたと云われている[9]。さらに古くは戦国期より見出せる足立郡のうちの水判土であった。水判土は水波田とも記す[8]。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では92石余、『元禄郷帳』では102石余、『天保郷帳』では115石余であった。助郷は中山道大宮宿に出役していたが、正徳・安永年間は日光御成街道大門宿にも出役していた。化政期の戸数は21軒で、村の規模は東西3町余、南北2町余であった[8]。 地名は低地の農地である水田(水畑)を意味する[8][4]。低地はかつての入間川の旧流路(現在の新川および鴨川)の氾濫原であった。 慈眼寺(じげんじ)には1591年(天正19年)11月10石の寺領(朱印地)が寄進されていた[10][8]。826年(天長3年)創建で、中世には慈眼寺に水判土館と称される城塁が存在していた[6]。
水判土荘水判土荘(みずはたのしょう)とはかつて武蔵国足立郡のうちに見出していた荘名。領域は現在のさいたま市西部の概ね鴨川および荒川に挟まれた流域沿い、および上尾市南部の一部が該当する[8]。 属していた村は戸崎村、別所村、中新井村、清河寺村、内野本郷村、新井村、上加村、内野村、水判土村、佐知川村、中野林村、島根村、上下内野村、並木村、土屋村、遊馬村、在家村、五関村、下大久保村、神田村、道場村の21ヶ村[8]。 水判土村に存在していた小字
世帯数と人口2019年(平成31年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[16]。
交通
道路水判土は古くからの交通の要衝であり[6]、現在でも下記の主要な道路が慈眼寺の門前にある水判土交差点で合流および分岐する。 バス大宮駅西口方面からの路線バスが運行されている。さいたま市コミュニティバスは西区コミュニティバスの路線が地内の西側を通るが、停留所は設置されていない[17]。 施設など
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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