森田宣森田 宣(もりた のぼる、1880年(明治13年)7月15日[1] - 1961年(昭和36年)7月1日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 経歴山口県出身[1][2]。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業[3]。翌年6月、陸軍砲兵少尉に任官する[3]。1911年(明治44年)陸軍大学校第23期卒業[4]。 駐米武官を経て、1924年(大正13年)12月に陸軍砲兵大佐に進み、野砲兵第6連隊長、参謀本部戦史課長を歴任し、1930年(昭和5年)8月、陸軍少将に進級する[2]。ついで国連陸軍代表やジュネーブ海軍軍縮会議随員を務めたのち、1933年(昭和8年)12月、兵器本廠附となり、翌年の1934年(昭和9年)8月、陸軍中将に進み、同年12月からは由良要塞司令官を務めた[1][2]。1936年(昭和11年)3月7日に待命、同月17日には予備役編入となり、1937年(昭和12年)7月、召集を受け留守第10師団長となり、翌年の1938年(昭和13年)7月に召集解除となった[2][5]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。 栄典
脚注参考文献
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