森永貞一郎森永 貞一郎(もりなが ていいちろう、1910年9月9日 - 1986年5月30日)は日本の大蔵官僚、銀行家。元大蔵事務次官、第5代東京証券取引所理事長、第23代日本銀行総裁。 妻は南洋庁長官・田原和男の長女で若槻禮次郎元首相の孫娘に当たる。 来歴・人物宮崎県小林市出身。父・貞右衛門は町会議員・商工会長などを務めた。宮崎・小林中学、第五高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部を卒業。同年、大蔵省に入省。主税局属[1]。戦時中は理財局金融課長や理財局証券課長、総合計画局参事官、大臣官房文書課長等を歴任し、戦後は経済安定本部総裁官房次長、長沼弘毅次官の下で大臣官房長を務め、1953年8月に主計局長、1957年5月に大蔵事務次官に就任。「大物事務次官」の要件とされる2年の任期を全うし、同省を退官。主計局長時代は日銀出身の一万田尚登大蔵大臣に強硬に反発をしたこともある。 退官後は、中小企業金融公庫総裁や東京証券取引所理事長等の要職に天下る。特に森永が切り拓いた東証理事長ポストには、森永以降も竹内道雄・長岡實・山口光秀ら大蔵省の大物OBが天下った為、このポストは長らく「大蔵一家のドン」の指定席とされた。森永 - 石野信一 - 谷村裕 - 竹内道雄から始まる歴代のドン達は、現役の大蔵省幹部に対して隠然たる影響力を行使し、省内人事や天下り人事を左右してきたとされている。 1974年、佐々木直の後を受けて第23代日本銀行総裁に就任。これ以後、日銀と大蔵省の出身者が交互に総裁職に就くというたすきがけ人事の慣行が、2003年の福井俊彦総裁誕生まで続くことになる。総裁の座に就いた森永は、早速、第1次石油危機後の対応に迫られることとなった。小宮隆太郎や堀内昭義等の経済学者から、佐々木前総裁の金融政策運営が、マネーサプライの管理に失敗したとの指弾を受けた為、森永日銀は公には否定しながらもマネーの適正管理に配慮をした政策運営を執ることとなった。結果、日本経済は石油危機から立ち直ると安定成長軌道に乗り順調な拡大路線を突き進むこととなった(当時の人々にとってみれば、石油危機後の経済はそれなりに苦しかったようだが、1990年代後半から2000年代前半にかけてのデフレ不況を思えば、それも隔世の感がある)。1979年、日銀総裁を退任。後継総裁にはたすきがけ人事の慣行に倣い、日銀プロパーの前川春雄が就いた。 日銀総裁退任後は皇室参与となる。1980年勲一等旭日大綬章を受け、小林市名誉市民となる。1986年5月30日死去。享年75。叙正三位、賜銀杯一組。 略歴
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