森 外三郎(もり そとさぶろう、1865年9月20日(慶応元年8月1日)[1] - 1936年(昭和11年)3月6日[2])は、日本の数学者・教育者。
経歴
1865年、石川県生まれ。第三高等学校で学び、東京帝国大学理科大学に進んだ。1891年(明治24年)、東京帝国大学を卒業[3]。
卒業後は、三重県尋常中学校教諭となった。第三高等学校教授、学習院教授などを歴任した。1909年(明治42年)よりイギリス・アメリカ合衆国・ドイツに留学し[4]、当時欧米で最先端の教育として注目されていた新教育運動(日本では「大正自由教育運動」)に触れる。帰国後の1911年(明治44年)より京都府立第一中学校校長となり、1922年(大正11年)に第三高等学校校長に転じた[注釈 1][注釈 2]。1931年(昭和6年)、三高で学生達の大規模なストライキがおこり、警察まで介入する事件となる。森は50名以上の学生に退学者出す処分を行い[注釈 3]、自らも引責退任した[5]。
著作
- 『代数学教科書(上)(下)』(金港堂、1904年)
脚注
注釈
- ^ 桑原武夫『人間素描』では30人あまりの人々を描写しており、京都一中・三高の名物校長森外三郎も登場する。
- ^ 第三高等学校校長時代の学生に湯川秀樹がおり、湯川の父の小川琢治は数学に熱中する湯川を専門学校へ進学させた方が良いと考えていたものの、「秀樹君ほどの才能というものは、めったにない。秀樹君の頭脳というものは、大変飛躍的に働く。着想がするどい。それがクラスのなかで飛びはなれている。天才的なところがある。それは私が保証する。」と数学者の立場から進言している。
- ^ 校長として断固とした処分を行う一方で、放校者を対象とした高校の卒業検定試験を実施し、彼らを実質卒業させ、将来の道を閉ざさないようにしていた。
出典
参考文献
- 桑原哲夫『森外三郎先生のこと』
- 人事興信所編『人事興信録 第10版(下)』人事興信所、1934年。
京都大学総長(第三高等学校長:1922年 - 1931年) |
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京都帝国大学総長 | |
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京都大学総長 ※1949-1954学長 |
- 第13代 鳥養利三郎 1947-1951
- 第14代 服部峻治郎 1951-1953
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- 第24代 尾池和夫 2003-2008
- 第25代 松本紘 2008-2014
- 第26代 山極壽一 2014-2020
- 第27代 湊長博 2020-
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| 京都大学附属医学専門部長 |
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京都帝国大学臨時附属医学専門部主事 | |
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京都帝国大学附属医学専門部長 | |
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京都大学附属医学専門部長 | |
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