桜隊(さくらたい、旧字体:櫻隊)は、かつて存在した日本の劇団。原爆の被害を受けた唯一の職業劇団[注釈 1]とされる。
本項では桜隊の前身である苦楽座についても述べる。
※以下文中での隊の名称は、記事名と同じ常用漢字体の「桜隊」で表記する。
概要
前身は、薄田研二、徳川夢声、丸山定夫、藤原釜足により結成された苦楽座。旗揚げ公演以降、各地での巡回公演に取り組む。苦楽座解散後、桜隊として、日本移動演劇連盟に組み込まれ、地方への慰問巡演活動をはじめる。劇団の地方疎開に際して、広島に15人が疎開。中国地方の慰問公演を受け持つ。原爆投下により、広島市内の宿舎兼事務所にいた丸山定夫ら9人は8月下旬までに全員が死亡した。応召、出産など様々な理由で広島への疎開に不参加または広島を離れていたメンバー多々良純、佐野浅夫、千石規子、利根はる恵、永田靖、池田生二、槙村浩吉らが難を逃れた。
2012年12月27日に千石が老衰で死去[1]。2022年6月28日には佐野が老衰で死去[2]。佐野の死去をもって旧『苦楽座』から続く『桜隊』のメンバー全員がこの世を去った[要出典]。
沿革
苦楽座時代
桜隊に再編
- 1945年1月、日本移動演劇連盟に組み込まれた苦楽座移動隊として再出発。2月から3月にかけて広島公演。しかし、3月の東京大空襲後に俳優の多くが帰郷し、丸山は演目の『獅子』(三好十郎作)で「お雪」を演じる人物を求めて旧知の女優の元を訪ね歩いたという。
- 6月、広島への疎開に際して、桜隊と改称する。15人が広島に疎開し、中国地方を中心に、『獅子』、『太平洋の防波堤』(八木隆一郎作)の演目で公演活動をおこない[9]、その合間に稽古や防空壕掘り、建物疎開作業などの作業を続ける[10]。7月6日の島根県美濃郡益田町(現・益田市)での公演を皮切りに、島根・鳥取両県の8カ所で都合10回の公演をすませ、7月16日に広島に帰還した。
被爆
-
桜隊が被爆した場所を2015年現在の地図に示したもの。赤○が被爆場所、☓が爆心地、上の川が京橋川、その上が比治山。赤○の下側の道(
並木通り)とその右側を縦断する大通り(
平和大通り)との交差点付近に移動演劇さくら隊殉難碑が建立された。
-
爆心地方向から東方向を望む。写真中央付近を横断する道が現在の
並木通りで、そこに唯一立つ建物から一つ右側を縦断する道の突き当り向こう側の地が、宿舎があった場所。その向こうの大きな川が仲が救助された京橋川で、その向こうに園井と高山が避難した比治山がある。
被爆死を免れた人々
苦楽座のメンバーでも、桜隊に参加しなかった者もおり、同じ桜隊所属でも、様々な事情から被爆を免れた者がいる。利根はる恵は病気のために疎開せず東京に居残り、最年少の佐野浅夫は1945年3月に本土決戦特攻隊員として出征。多々良純は、同年6月に応召され、八田元夫はたまたま連絡のため帰京。池田生二は空襲にあった妻の沼津の実家を見舞いに行き、槙村浩吉は俳優を探すため上京。後に黒澤作品に多数出演した千石規子は、出産で広島を離れていたため、それぞれ難を逃れた。
苦楽座の結成メンバーである薄田研二、徳川夢声、藤原釜足も東京で映画の撮影などをしていて、難を逃れている。また、東宝専属俳優の久松保夫は、丸山から桜隊への参加を誘われるものの、東宝の許可が出なかったため断念[13]。川上夏代も、桜隊の島木つや子が広島への疎開に同行する際につや子の母親からも桜隊への参加を強く勧められたが、俳優座に入るために固辞した[14]。
桜隊の広島疎開には珊瑚座という移動劇団が同行し、広島市内の同じ宿舎を拠点にしたが、厳島出身の隊所属の女優の伝手で、7月末に厳島の寺に移動し、結果として原爆の被害を免れた[15]。珊瑚座の乃木年雄以下のメンバーは、疎開先の存光寺を拠点に桜隊の行方を探し、寮で死亡した5名の遺骨を掘り出し、丸山定夫の発見にも尽力した。
桜隊を描いた作品
映画
演劇
TVドキュメンタリー
詩
- 近野十志夫『桜隊 人物史詩』青磁社、1988年5月[16]
ラジオ
- 『桜隊とマリーゴールド』 - 広島FMの特別番組ラジオドラマ。副題は『広島で散った夢と恋と、私』。2019年8月11日19:00 - 20:00に放送。森下彰子と、その夫の川村禾門の手元に遺された恋文を中心にドラマ化。脚本:清水浩司、原案:堀川惠子『戦禍に生きた演劇人たち 演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』講談社〈講談社文庫〉、2019年7月12日。ISBN 978-4065163436。 [17] 彰子の恋と「あいみょん」の音楽とが重ねて描かれ、エンディング曲はマリーゴールド。終盤では、川村禾門が生前、妻の彰子と桜隊について語った肉声も紹介。
慰霊碑
その後の関係者の行動
苦楽座・桜隊元関係者
氏名 |
行動
|
利根はる恵 |
映画『ひろしま』、映画『さくら隊散る』に出演。
|
佐野浅夫 |
終戦後、憲兵の職務を拝命した時、東大病院に仲みどりが入院したとの知らせを聞き、憲兵の特権を利用し、病院にかけつけた。こうした体験談を2007年8月6日の「被爆62年 2007年 桜隊原爆殉難者追悼会」で語った[22]。
|
多々良純 |
映画『原爆の子』に出演、2005年、仲みどりに関して毎日新聞の取材に答える[23]。
|
八田元夫 |
「ガンマ線の臨終」(『働く婦人』27号、1949年10月1日)[24]に園井恵子と高山の臨終の様子を書いた。1965年に『ガンマ線の臨終 ヒロシマに散った俳優の記録』(未來社)として刊行[25]。
|
池田生二 |
1966年、「『苦楽座移動隊』(桜隊)日誌」を『新劇』誌7月から9月号に連載。1988年、映画『さくら隊散る』を企画。「『捨吉』に三好さんを偲ぶ 『三好十郎』展を観て」を早稲田大学図書館報『ふみくら』第15号に寄稿した[26]。1991年8月5日、放送のNHK『現代ジャーナル 原爆とは知らず 女優・園井恵子の戦争』に証言者として出演[要出典]。
|
槙村浩吉 |
1998年7月発行の『彷書月刊』の「特集・劇団『さくら隊』原爆忌」に「丸山定夫の最期− 『さくら隊』事務総長の日録抜書」掲載。1991年8月5日、放送のNHK『現代ジャーナル 原爆とは知らず 女優・園井恵子の戦争』に証言者として出演[要出典]。
|
千石規子 |
核戦争に怯える男の姿を描いた黒澤明監督の映画『生きものの記録』に出演。
|
薄田研二 |
映画『ひろしま』に出演。
|
徳川夢声 |
1952年9月、徳川夢声が東京都目黒区・天恩山五百羅漢寺に移動劇団さくら隊原爆殉難碑を建立。碑銘を書いた[21]。
|
藤原釜足 |
桜隊原爆忌の会会長となる。
|
周辺の人々
氏名 |
行動
|
赤星勝美 |
元・日本移動演劇連盟職員として、映画『さくら隊散る』に出演。
|
乃木年雄 |
戦後、桜隊と一時行動をともにした珊瑚座の元座長として「移動演劇 さくら隊原爆殉難記」を書く[15]。
|
清水善夫 |
仲みどりの診察に立ち会った医学生として、映画『さくら隊散る』に出演、2005年、仲みどりに関して毎日新聞の取材に答える[27]。
|
太田怜 |
仲みどりの診察に立ち会った医学生として、映画『さくら隊散る』に出演。2005年、仲みどりに関して毎日新聞の取材に答える[28]。
|
脚注
注釈
出典
参考文献
関連文献
- 「特集劇団『さくら隊』原爆忌」『彷書月刊』第14巻第8号(1998年8月号)、弘隆社
関連項目
外部リンク