林元善
林 元善(はやし もとよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏家臣で長州藩士。牛の皮城主。父は林就長。 生涯永禄元年(1558年)、毛利氏家臣である林就長の子として生まれ、元亀3年(1572年)に石見国邇摩郡の金剛山安楽寺の諸堂と七坊を再興する。 天正6年(1578年)6月21日、播磨国上月城の戦いにて功を立て、6月28日に毛利輝元より感状を得る。 豊臣政権下においては、父・就長と共に毛利家と豊臣家の渉外を任されており、天正16年(1588年)7月、豊臣秀吉によって父・就長が従五位下・肥前守に任じられるのと同時に、元善も従五位下・志摩守に叙任された。 文禄3年(1594年)9月3日、毛利輝元より備後・安芸・周防の3ヶ国で合計2290石の所領[1]を安堵される。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に毛利氏が防長2ヶ国に減封されると、元善も周防国へ移って毛利秀就に仕え、慶長14年(1609年)12月6日に52歳で死去。12月16日に嫡男の元直が家督と知行[2]を継ぎ、次男の元由には200石の地が分知された。また同日には、三男の元之にかつて林就長が知行していた120石が与えられた。子孫は萩藩大組として残る。 脚注参考資料 |