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松平直丘

 
松平 直丘
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文5年6月26日1665年8月7日
死没 正徳2年12月27日1712年1月23日
改名 岩千代、直能、直高、直丘
別名 頼母、頼母介
戒名 法性院運誉直覚
官位 従五位下美作守志摩守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉家宣
出雲国母里藩藩主
氏族 越前松平家(雲州家→母里家)
父母 父:松平直政、母:篠塚氏
兄弟 綱隆近栄、女子(松平直矩妻)、隆政、女子(佐竹義処妻)、直丘、ほか[1]
正室:細川利重養女細川綱利娘)
継室:松平頼元
初(細川綱利養女)、豊(松平守信正室)、直員、男子、ほか[2]
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松平 直丘(まつだいら なおたか[3])は、江戸時代前期から中期にかけての大名出雲国母里藩2代藩主。母里松平家2代。

通称は頼母(たのも)[4]、頼母介[3]は、はじめ直能直高[5][4]

略歴

寛文5年(1665年)6月26日、松江藩藩主・松平直政の四男として誕生[4]。母は側室・篠塚氏[4]幼名は岩千代[5]。のち、頼母と称する[5]

延宝元年(1673年)、兄・隆政の死後、同年5月13日、その相続が認められて跡を継いだ[4][3]。同7年(1679年)12月28日、従五位下美作守となる[4][5]

貞享3年(1686年)9月28日、大番頭に、元禄元年(1688年)5月、御側衆となる[5]。同7年(1694年)冬、御奏者となる[5]

元禄13年(1700年)9月朔日志摩守となる[4]

男子がいたが早世していたため、正徳2年(1712年)3月4日、新庄直詮の次男・直員を養嗣子として迎えた[6][注 1]

同2年12月27日、死去した[4]。48歳[4]。法名は法性院運誉直覚[4]

系譜

  • 生母不明の子女
    • 男子

脚注

注釈

  1. ^ 以降、直員とその長男・直道、次男・直行と、越前松平家出身でない当主が続いたが、その後に直良系の松平直暠直方兄弟が養子入りしている

出典

参考文献

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