松平直丘
松平 直丘(まつだいら なおたか[3])は、江戸時代前期から中期にかけての大名。出雲国母里藩2代藩主。母里松平家2代。 通称は頼母(たのも)[4]、頼母介[3]。諱は、はじめ直能、直高[5][4]。 略歴寛文5年(1665年)6月26日、松江藩藩主・松平直政の四男として誕生[4]。母は側室・篠塚氏[4]。幼名は岩千代[5]。のち、頼母と称する[5]。 延宝元年(1673年)、兄・隆政の死後、同年5月13日、その相続が認められて跡を継いだ[4][3]。同7年(1679年)12月28日、従五位下・美作守となる[4][5]。 貞享3年(1686年)9月28日、大番頭に、元禄元年(1688年)5月、御側衆となる[5]。同7年(1694年)冬、御奏者となる[5]。 男子がいたが早世していたため、正徳2年(1712年)3月4日、新庄直詮の次男・直員を養嗣子として迎えた[6][注 1]。 同2年12月27日、死去した[4]。48歳[4]。法名は法性院運誉直覚[4]。 系譜
脚注注釈出典
参考文献 |