李益星
李 益星(リ・イクソン、1911年 - 没年不詳)は朝鮮民主主義人民共和国の軍人。延安派に所属。李益成、李益宣、李翼星とも表記される。別名は、李義興。 経歴1911年、咸鏡北道鏡城郡に生まれる。龍井の恩真中学校を卒業。 1936年、朝鮮民族革命党に入党。 1933年7月、中央陸軍軍官学校入学。第1総隊歩兵大隊第3隊配属[1]。 1936年6月、中央陸軍軍官学校第10期歩兵科卒業[2]。 1937年4月9日、陸軍歩兵少尉[3]。 1938年3月、中央陸軍軍官学校特別訓練班区隊長。 1938年10月、朝鮮義勇隊第2区隊長[2]。第2区隊は第5戦区の湖北省北部と第1戦区の河南省洛陽で活動した[2]。1939年10月に朝鮮義勇隊が3個支隊に拡大されると第2支隊長[4]。1941年、朝鮮義勇隊華北支隊に改編されると副支隊長兼第1隊長[5]。 1942年7月、朝鮮独立同盟執行委員[6]および朝鮮義勇軍華北支隊副支隊長兼第2隊長に就任。同年8月に冀魯豫軍区に行き、1945年まで遊撃活動。 1945年、朝鮮革命軍政学校に赴任し、学生隊第1中隊長。同年11月、朝鮮義勇隊第5支隊長に就任。延辺到着後、吉東軍区参謀長[7]。 1946年5月、38度線以北に帰国[7]。羅南保安訓練所(第2師団)参謀長に就任し、朝鮮人民軍の建軍に参加した。1948年、内務省警備局(局長:朴勲一)参謀長[8]。1949年1月、38度線警備第7旅団長[8]。 朝鮮戦争勃発時は第7警備旅団長[9][10]。第7警備旅団は第7師団に改編され、同師団長に就任[11]。1950年9月、第13師団長。釜山橋頭堡の戦いで負傷[7]。総参謀部隊列補充局長[12]や羅津軍官講習所長を歴任[7]。 1960年頃、軍事クーデターを計画した疑いで粛清される。 脚注
参考
外部リンク
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