木下周一
木下 周一(きのした しゅういち、1851年10月15日(嘉永4年9月21日)- 1907年(明治40年)6月4日)は、明治期の日本の官僚。官選県知事。 経歴佐賀藩支藩の家臣の子として生まれる。明治4年(1871年)、ドイツに留学しライプツィヒ大学で法律学を学んだ。 帰国後、1875年8月、司法省に入り十一等出仕となる。以後、明法権中属、明法中属、陸軍会計官吏、太政官権少書記官兼陸軍七等出仕、参事院議官補、兼陸軍省御用掛、法制局参事官、兼内閣恩給局審査官などを歴任。参事院議官補時には旧商法の編纂に従事した[1]。 1894年1月、山形県知事に登用され、1897年4月まで在任。同年5月、台湾総督府に転じ、鳳山県知事、台中県知事を歴任。1901年11月、台中県知事が廃官となり、1902年2月、埼玉県知事となる。1905年9月4日、大分県知事に転任したが、一週間後の同月11日に依願免本官となる。墓所は青山霊園(1イ6-3-2)。 栄典
脚注参考文献
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