服部土芳服部 土芳(はっとり とほう、明暦3年(1657年) - 享保15年1月18日(1730年3月6日))は江戸時代前期の俳人である。松尾芭蕉と同郷の後輩で、蕉門十哲の1人に加えられることもある。芭蕉晩年の俳論を整理した『三冊子』などの著書を残した。本名は保英、通称は半左衛門。号は芦馬・蓑虫庵・些中庵。 来歴伊賀上野に生まれた。米問屋木津孫次郎保何の五男として生まれた後、藤堂藩士服部半左衛門の養嗣子となる[1]。幼いころに芭蕉に俳諧を学び、はじめ蘆馬(芦馬)と号した。1685年(貞享2年)、水口宿(滋賀県)で旅の途中の芭蕉と20年ぶりに再会し[1]、1688年(貞享5年)に藩を致仕し、訪れた芭蕉の「みのむしの音を聞にこよ草の庵」の句から蓑虫庵と呼ばれる。俳号も芦馬から土芳に改めた[1]。土芳を中心に伊賀蕉門は大きく発展した[1]。 編著書として、芭蕉の俳論を伝える『三冊子』、芭蕉の生涯全作品を集大成した『蕉翁句集』『蕉翁文集』を完成させた[1]。この他、『横日記』『蓑虫庵集』などの日記を残し、当時の俳諧についての価値の高い資料を残した。土芳の句には「棹鹿のかさなり臥る枯野かな」などが『猿蓑』に所収されている。墓所は伊賀市西蓮寺(伊賀市指定史跡) 脚注参考文献
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