普選運動普選運動(ふせんうんどう)、普通選挙運動(ふつうせんきょうんどう)とは、近代日本において普通選挙の実現を求めた運動である。その端緒は明治時代中期(19世紀末)の「普通選挙期成同盟会」の結成に求められ、その後大正デモクラシーのもとで最高潮に達し、1925年(大正14年)の普通選挙法制定により成功を収めたことから終焉した。 概要前提1868年 (慶応4年3月) の五箇条の誓文、1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書、1875年(明治8年)の立憲政体の詔書、1881年(明治14年)の国会開設の詔、1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法及び衆議院議員選挙法に基づき帝国議会が成立し、1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙以来、選挙人を満25歳以上の男子に限り、また直接国税納税額などにより選挙人の範囲を限るなどした上で衆議院議員を選出する制限選挙の下での立憲政治が始まった。一方、日清戦争・義和団の乱・日露戦争・第一次世界大戦と、国防の義務は、財産の多寡によらず、成人男子全体に課せられた。日露戦争以後の都市騒擾事件の頻発など、命を懸けた国家への貢献を求められた国民の範囲と、政治参加が認められた国民の範囲のずれが顕在化する。さらに、1917年(大正6年)のロシア革命と、大戦後の欧米各国における民主主義(デモクラシー)の高揚は、普通選挙の実現をより緊急の課題とした[1]。 展開1867年(慶応3年)、赤松小三郎によって、前福井藩主・松平春嶽に対して「御改正之一二端奉申上候口上書」[2][3]を提出。島津久光と幕府にも、春嶽宛のものと同様の建白書を提出。日本初の普通選挙による議会制民主主義制度の提言である。 1897年(明治30年)、中村太八郎らと旧進歩党系と地主・自作層によって長野県松本市に普通選挙期成同盟会が設立された。1900年(明治33年)から社会主義者も運動に参加したが、日露戦争で離脱。1899年(明治32年)10月2日には東京にも中村太八郎らと旧自由民権運動系の自由主義者等により同名の普通選挙期成同盟会が設立された。1902年(明治35年)8月10日の衆院選で中村が落選し本部は東京が明確化した。1902年(中村弥六・花井卓蔵・河野広中ら、2月12日衆議院に提出、2月25日否決)、1903年(明治36年)、1908年(明治41年)、1909年(明治42年)、1910年(明治43年)、1911年(明治44年)(松本君平ら提出、3月11日衆議院可決、3月15日貴族院否決)と国会に普選法案を提出。 1916年(大正5年)1月に吉野作造が民本主義を広めた。1918年(大正7年)半ばの米騒動と11月11日第一次世界大戦休戦による世界的に民主主義の潮流に刺激され、1919年(大正8年)から1920年(大正9年)には学生、労働者、中間層(商工業者)、新中間層による普選デモ・集会が頻発した。1920年2月11日に、東京で111団体、数万人の普選大示威行進が行われた。1920年5月10日の第14回衆議院議員総選挙で普選に反対する党首原敬の立憲政友会の圧勝と1920年3月15日東京株式市場が暴落による戦後恐慌とアナルコサンディカリスムの浸透により労働者・学生の多くは普選運動を一時離脱した。 1920年7月12日、衆議院で憲政会・国民党各提出の普選法案を上程、否決した。1921年2月3日、衆議院で、憲政会・国民党よりそれぞれ提出の普通選挙法案を否決した。 1922年2月23日、衆議院で、憲政党・国民党・無所属団共同提出の統一普通選挙法案を上程する。討論中、傍聴席より生蛇が投入される。同夜、普選要求の群衆数万、警官と衝突した。2月27日同法案を否決した。1923年3月1日、衆議院は普通選挙法案を否決した。 しかし、その後毎年のようにデモが頻発し、また、多くの普選団体は憲政会の傘下に組み込まれた。第45議会下の1921年(大正10年)12月26日には野党憲政会と国民党が統一普選案を提出した。1923年(大正12年)9月2日発足の第2次山本権兵衛内閣は普選実施をほぼ決めていた。1924年(大正13年)1月7日発足した清浦奎吾内閣による超然主義内閣が最後の一押しとなり、1924年5月10日、第15回衆議院議員総選挙では与党政友本党に対し野党三派が勝利した。9月4日、政府と与党3派の普選連合協議会は、普選法案大綱を決定した。1925年(大正14年)2月13日、枢密院は普通選挙法案にかんし政府との妥協が成立。2月22日、普選および貴族院改革断行国民大会が国技館で開催。3月2日、衆議院で普通選挙法案(衆議院議員選挙法改正案)を修正可決。3月26日、貴族院で、修正可決。3月29日に両院協議会案が成立、改正衆議院選挙法(普通選挙法)が可決成立した。 1926年9月3日、浜松市会議員選挙が、日本最初の普通選挙により執行された。1928年2月20日、第16回総選挙、最初の普通選挙として執行された。 年譜第一期
この頃はジャーナリズムも普選に冷淡であった。 第二期1918年(大正7年)の米騒動と第一次世界大戦休戦を機に1919年(大正8年)2月から普選運動が激化した。あらゆる団体・個人により普選運動が展開された。マスコミも。
普選運動における主要団体の変遷1892年(明治25年)から1918年(大正7年)まで
社会主義団体1900年(明治33年)から社会主義者による普選運動が行われた。普選運動は1907年(明治40年)2月からは議会政策派のみ。1908年(明治41年)2月からは片山潜派のみ。1914年(大正3年)の片山渡米後は堺利彦が中心。
その他
1912年(明治45年・大正元年)から1920年(大正9年)頃まで大正政変以降、地方に市民政社(松尾尊兊の言葉。自由主義的青年層の自主的政治組織で主に商工業者が中核)が続々誕生。1918年(大正7年)に起きた米騒動と第一次世界大戦後に更に増加。〇〇普選期成同盟会 〇〇青年党と称した。だが次第に市民政社は憲政会の傘下に組み込まれていった。1919年(大正8年)1月に普選同盟会 (東京)が再興する。
1920年(大正9年)頃1920年(大正9年)から憲政会色が強い全国普選連合会と労働組合団体とが普選運動の中心になる(勿論それ以外の多数の団体・個人も普選運動に参加)。そのため普通選挙期成同盟会 (東京)は求心力を低下させる。
1921年(大正10年)から1925年(大正14年)まで
学生団体1900年(明治33年)には学生が普選運動に参加していた(専修学校・東京法学院・明治法律学校の学生)。
婦人団体
労働団体・農民団体・その他(上記以外)
1911年(明治44年)以前から普選運動に参加
1912年から普選運動に参加
普通選挙期成関西労働連盟(関西連盟)に参加
普選期成治警撤廃関東労働連盟結成(関東連盟)に参加
全国普選連合会に参加した団体(労働団体以外も含む。有志のみも含む)
青年改造連盟に参加(労働団体以外も含む)
全国労働団体連盟に加盟(青年改造連盟に関係)
上記以外で1920年(大正9年)の総選挙で協力した労働団体
1920年総選挙以降に普選運動に参加。(官業系・労使協調主義組合は除き主流の労働組合は普選運動離脱した。)
関西労働組合連合会に参加
全国普選断行同盟に参加
東海普選連盟
神戸普選連盟
西日本普選大連合に参加
1923年(大正12年)
1924年(大正13年)
市民政社・市民政社に近い団体
地方政治団体(上記以外)
政党
超党派グループ
政党院外団憲政会 国民党 マスコミ
関連人物脚注
関連項目参考文献 |