日本堤
日本堤(にほんづつみ)は、東京都台東区の町名[4]。現行行政地名は日本堤一丁目および日本堤二丁目。郵便番号は111-0021[2]。地名の元となった「日本堤」についても記述する。 地理台東区の北部に位置する。町域東部は台東区清川に接する。町域南部は日の出会通りに接し、これを境に台東区東浅草に接する。町域西部は土手通りに接しこれを境に台東区千束・台東区竜泉・台東区三ノ輪一丁目にそれぞれ接する。町域北部は、明治通りに接しこれを境に荒川区南千住・台東区三ノ輪二丁目に接する。 町域内は商店や各種事業所、住居等が混在しているほか、東部には大阪市の釜ヶ崎、横浜市の寿町と並んで称される日本の三大人足寄場の一つとして日雇い労働者が集まる[5]「山谷」の一画を含んでおり簡易宿泊所(通称「ドヤ」)が多く見られ、2008年12月末現在の簡易宿泊所は53軒を数える[6]。北東端には泪橋交差点がある。いろは会商店街が日本堤一丁目のほぼ中央を東西に伸びている。この商店街は漫画『あしたのジョー』の舞台が商店街の近くの泪橋であることから、同作品を利用した街おこしを行っている。かつては皮革業の工場が多く見られたが、現在は多くが移転・廃業している。 歴史日本堤の地理と地名の由来かつてこの一帯は入間川(現:隅田川)の氾濫原に当たり、石浜(現:石浜神社付近)から真土山(現:待乳山本龍院)、浅草(現:浅草寺付近)、鳥越岡(現:鳥越神社付近)の高台からなる自然堤防の背後の広大な後背湿地だった。この湿地帯は忍ケ岡(上野山の古名)のふもとにまで及び、度重なる洪水によってなかなか陸化せず、当時の図絵に千束池や姫の池などとして見える。 江戸市街も常に氾濫の危険があったが、江戸幕府による荒川をはじめとする治水事業により[7]元和6年(1621年)待乳山を崩した客土で、浅草聖天町[注釈 1]の今戸橋(待乳山聖天付近)から北西方向へ箕輪浄閑寺にかけて堤防が築かれた[注釈 2]。 全国の諸大名により60余日で完成したため日本堤だともいうが記録がなく確証が薄い[11]。また土手が二本あったから「二本堤」という説もあるが、これも場所が特定できていない。山谷堀はこの土手の北側にあり、石神井用水から分かれた音無川など上流部からの排水路として機能していた。 土手上は周囲を見渡せる見通しのよい街道(6町余りの長さがあったことから土手八丁と呼ばれた)として利用された。明暦の大火の後に土手南側に人形町から遊郭が移転し吉原となってからは「吉原土手」「かよい馴れたる土手八丁」などとも呼ばれ、遊びに通う江戸っ子たちで賑わった。 関東大震災から4年後の1927年(昭和2年)、日本堤は取り崩された。現在は土手通りとして痕跡を留めている。 町域名としての沿革
世帯数と人口2020年(令和2年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小・中学校の学区区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[12]。
交通鉄道町域内に鉄道駅はない。北側に南千住駅(JR常磐快速線・つくばエクスプレス・東京メトロ日比谷線)、北西側に三ノ輪駅(東京メトロ日比谷線)が設置されている。 バス施設
東京消防庁日本堤消防署は町域外の千束一丁目に所在している。また、公共職業安定所は町域内にはないが労働課窓口業務については隣接する清川に設置された上野公共職業安定所玉姫労働出張所の、その他は上野公共職業安定所の管轄となっている[注釈 3][6]。 現存しない施設脚注注釈出典
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