日本の官制日本の官制(にほんのかんせい)は、日本の前近代、とくに律令制期の統治機構(および官僚制)を指す。 律令制(大宝律令)以前律令制以前において、体系的な官制は整備されていない。 ヤマト王権の形成期、「姓(カバネ)」と呼ばれる血縁集団から「氏(ウジ)」と呼ばれる同族集団が現れ、この「氏」や「部(ベ)」と呼ばれる職能集団が、それぞれの勢力や能力によって王権内の仕事を分掌した。「氏」や「部」は各々、土地と人民を所有・支配した(部民制)。次第に、「姓」・「氏」や「部」は、王権によって序列化・統制され、私的な集団から公的な制度へと編成されて行く。(→氏姓制度、人制、八色の姓) 一方、皇族(大王の一族)を中心とする支配体制を強化し、血縁や勢力にとらわれない人材登用を進めるため、官位(冠位)の制度(官職と位階を関連づける制度)も取り入れられる。603年(推古11年)、聖徳太子が制定した冠位十二階は、その嚆矢である。この官位の制度は、冠位十二階から律令による官位制まで、数度の変遷がある(冠位・位階制度の変遷)。 氏姓制度と官位制、および職掌を体系的に整備したのが律令制である。668年(天智8年)に最初の「令(りょう)」である近江令が制定され、689年(持統3年)の飛鳥浄御原令において初めて体系化されたといわれている。701年(大宝元年)に成立した大宝律令は、その集大成となった。 律令制(大宝律令)以後以下は、律令制の中の官制、特に官職について説明する。 中央官制中央官制は、二官八省を基本とする体制である。君主である天皇の下に、朝廷の祭祀を担当する神祇官と国政を統括する太政官が置かれ(二官)、太政官の下に実際の行政を分担する八省が置かれた。二官八省の他にも、行政組織を監察する弾正台や宮中を守る衛府が天皇の直轄として置かれた(まとめて、二官八省一台五衛府)。さらに八省のもとには職・寮・司と呼ばれる実務機関が設置されていた。後に組織が時代に合わなくなると、令に規定の無い官(令外官)を設けることで対処した。 中国の律令制が皇帝にすべての権限を集めて三省(中書省・門下省・尚書省)がこれを補佐する体制であるのに対し、日本の律令制では、天皇と各省の間に天皇の代理機能を果たす緩やかな合議体、太政官を置いたことに特徴がある。 なお、「官」とは役所そのものを指し、「役所の職員」を指す現在の用法とは異なる。 二官八省左弁官局が中務省・式部省・治部省・民部省の4省を、右弁官局が兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の4省を管轄する。
弾正台
衛府東宮馬寮兵庫後宮家令その他の主な令外官
地方官制→詳細は「古代日本の地方官制」を参照
全国は数十カ国の令制国に分けられ、個々の国は中央から派遣された国司が治めた。 またこれとは別に、要地には特別の職(大宰府、左右京職、摂津職など)が配置された。 四等官諸官司には一般に長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の四等官が置かれた。そのほかに各種の品官(ほんかん)(以上は官位相当官)や史生(ししょう)・伴部(ともべ)・使部(しぶ)などの雑任(ぞうにん、下級職員)が所属していた。
※注: 官位相当表養老令
令外官
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