志賀 眞津子(しが まつこ、1925年10月5日 - )は、日本の女優。志賀真津子の表記もある。本名:枝川高子(旧姓:後藤)。さち子プロ所属。
来歴
東京市神田区生まれ。
都立高等家政女学校を経て、1944年に東京YWCA家政部を卒業。終戦の翌年の1946年、疎開先から東京都内に生まれて間もない子供と共に帰ってくる。夫は疎開先で亡くなっている。その後、亡夫の家族と生活していたが、自立を考え、好きだった演劇の道に進むことを決意する。義父が作家の志賀直哉と親しく、女優になることを志賀直哉に相談したところ、小津安二郎監督を紹介される。志賀直哉が名付け親になり、芸名を「志賀眞津子」とする。松竹大船撮影所に小津監督を訪ね、撮影所の中庭で小津監督からカメラテストを受けた。
1950年、松竹演技課に入所。翌1951年、小津監督の映画『麦秋』で本格的にデビューする。以降、複数の小津監督作品をはじめ、数々の映画・テレビドラマに出演。
後年、女優業と共に、校正を学び出版社のアルバイトもしていたという(詳細時期は不明)。
1975年12月25日、枝川弘監督と再婚。2010年7月10日、夫の枝川と死別(枝川は93歳だった)。
2010年11月から12月まで放送されたフジテレビ系昼ドラマ『花嫁のれん』に出演し、女優として健在ぶりを示している[1]。
出演
映画
- 女性三重奏(1950年、松竹)
- 奥様に御用心(1950年、松竹)
- 麦秋(1951年、松竹)
- あわれ人妻(1951年、松竹)
- 我が家は楽し(1951年、松竹)
- お茶漬の味(1952年、松竹)
- 妻の青春(1953年、松竹)
- 「めでたい風景」より 新婚天気図(1954年、松竹)
- 君に誓いし(1954年、松竹)
- 亡命記(1955年、松竹)
- 次郎物語(1955年、新東宝)
- 悪魔の顔(1957年、松竹)
- 家庭教師と女生徒(1957年、松竹)
- 眼の壁(1958年、松竹)
- オンボロ人生(1958年、松竹)
- 黒い花粉(1958年、松竹)
- 続・禁男の砂(1958年、松竹)
- 恋愛裁判(1959年、松竹)
- ある落日(1959年、松竹)
- いたづら(1959年、松竹)
- 斑女(1961年、松竹)
- 流し雛(1962年、松竹)
- 東京湾(1962年、松竹)
- 求人旅行(1962年、松竹)
- 九ちゃん音頭(1962年、松竹)
- あの橋の畔で・第2部(1962年、松竹)
- 秋刀魚の味(1962年、松竹)
- あの人はいま(1963年、松竹)
- 危い橋は渡りたい(1963年、松竹)
- 五瓣の椿(1964年、松竹)
- 嘘は底抜け(1964年、松竹)
- 戦場の野郎ども(1964年、松竹)
- この空のある限り(1964年、松竹)
- 俺たちの恋(1965年、松竹)
- 暖春(1966年、松竹)
- 紀ノ川(1966年、松竹)
- 恋と涙の太陽(1966年、松竹)
- 男の顔は履歴書(1966年、松竹)
- 火の太鼓(1966年、松竹)
- 激流(1967年、松竹)
- 花の宴(1967年、松竹)
- 夜のひとで(1967年、松竹)
- 初恋宣言(1968年、松竹)
- スクラップ集団(1968年、松竹)
- 喜劇 大激突(1969年、松竹)
- 男はつらいよ(1969年、松竹)
- 海はふりむかない(1969年、松竹)
- 日も月も(1969年、松竹)
- 美空ひばり・森進一の花と涙と炎(1970年、松竹)
- 冠婚葬祭入門 新婚心得の巻(1971年、松竹)
- 必殺仕掛人 梅安蟻地獄(1973年、松竹)
- はだしの青春(1975年、松竹)
- 八つ墓村(1977年、松竹)
- 皇帝のいない八月(1978年、松竹)
- 配達されない三通の手紙(1979年、松竹)
- アニメちゃん(1984年、松竹)
テレビドラマ
脚注
- ^ 大・大・大ベテラン女優、志賀眞津子さんを紹介 - 2010年フジテレビ系『花嫁のれん』公式サイトより
外部リンク