後藤義光
後藤 義光(ごとう よしみつ)は、江戸時代末期〜明治時代の宮彫り師。幼名は若松、通称は利兵衛(りへえ)。 幼少期から死没する直前までに多くの作品を手掛け、その数は把握されているだけで100を超える[注釈 1]。波の伊八、武田石翁と共に「安房の三名工」と並び称される。 生涯幼少期後藤義光は、1815年(文化12年)1月28日、安房国朝夷郡北朝夷村(千葉県南房総市千倉町北朝夷)に生まれた。生家は「弥兵」を屋号とする宮大工である。長男。 幼少より父親の大工道具を器用に操ったといわれ、南房総市千倉町川合には14歳で彫り上げた大黒天像と賓頭盧尊者立像が納められている。天保4年ごろ、誕生寺造営に携わる後藤三次郎橘恒俊と出会った。仕事振りを見ようと毎日のように恒俊の元へ通ったことが、のちの弟子入りに繋がる縁になったと考えられる。 弟子入り、相模での活動1837年(天保8年)、23歳で恒俊に弟子入りするために江戸に移る。弟子入りから5年後の28歳で、師匠に代わって西叶神社の彫刻を手掛けた。弟子入り中の代表作にして出世作である。刻銘には「後藤利兵衛光定」を用いた。「光定」の刻銘は30歳まで用いた。最後の作品は菩提寺・西養寺の客殿の龍である。「義光」を名乗るのは32歳からとされている。 帰郷1856年(安政3年)、42歳で安房に帰郷する。義光の作品は多くが帰郷後に作られた。代表作である鶴谷八幡宮の格天井「百態の龍」もこのころの作品である(52歳)。義光と生涯に渡る親交を持った人物に金剛宥性がいる。清澄寺の住職にして真言宗智山派総本山智積院の43世化主となった人物である。この交流により義光は、宥性が詠んだ御詠歌の扁額を制作した。安房国108ヶ所の真言宗智山派寺院に奉納されている。また、宥性の依頼で鞍馬寺に「牛若丸と僧正坊図」の大扁額を納めた。 晩年78歳には小網寺本堂を手掛けた。義光の龍としては最大級である。この仕事を終えたのち、館山市青柳(現下真倉)に移り住んだ。1902年(明治25年)、門人や友人が義光の米寿を祝って来福寺(館山市長須賀)に寿蔵碑を建立した。お祝いの席の挨拶で、義光は「彫刻師は人にほめられておる時が一番恐ろしい時であり、私は職人として未(いま)だ快心の作を刻んだことがない、これから傑作を作るのだ」[1]と話したといわれている。最晩年の作品は、南房総市二部の勝善寺本堂にある。同年、88歳の生涯を終えた。視力の低下を苦にしてのものといわれている[2]。 主要作品年表
脚注注釈
出典関連書籍
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