広島県立福山葦陽高等学校(ひろしまけんりつ ふくやまいようこうとうがっこう)は、広島県福山市久松台にある県立の高等学校。人数は教員含め約1000人程度。
概要
- 歴史
- 1906年(明治39年)創立の高等女学校を前身とする。1948年(昭和23年)の学制改革により、新制高等学校となる。数回の改称を経て現校名になったのは1968年(昭和43年)。2016年(平成28年)に創立110周年を迎えた。
- 校名の由来
- かつて福山城二の丸跡に校舎があったため、福山城の別名である葦陽城にちなんだものである。
- 設置課程・学科
- 全日制課程 普通科
- 定時制課程 普通科(昼間)
- 校訓
- 「強く 正しく 美しく」
- 校章
- 高校再編で「広島県福山南高等学校」になった1949年(昭和24年)に制定。Mの文字を3つ合わせて「南」を表し,中央に2枚の葉と「高」の文字を置いている。
- 校歌
- 作詞は篠崎正夫、作曲は鈴木けんごによる。歌詞は2番まであり、2番の歌詞中に校名の「葦陽」が登場。
沿革
- 1906年(明治39年)4月18日 - 「広島県深安郡福山町立福山女学校」が開校。
- 1909年(明治42年)3月 - 「広島県深安郡福山町立福山高等女学校」と改称。
- 1913年(大正2年)7月1日 - 県立移管により、「広島県立福山高等女学校」と改称。
- 1939年(昭和14年)3月 - 福山葦陽学院を併設。
- 1946年(昭和21年)4月 - 修業年限が5年に改められる(ただし4年修了時点で卒業することもできた)。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制)が行われる。
- 高等女学校としての募集を停止。
- 新制中学校を併設し(以下・併設中学校)、高等女学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。
- 併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたもので、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
- 高等女学校3・4年修了者はそのまま高等女学校4・5年生として在籍(ただし4年修了時点で卒業することもできた)。
- 1948年(昭和23年)5月3日 - 学制改革により高等女学校が廃止され、新制高等学校「広島県福山葦陽高等学校」が発足。
- 通常制普通課程(全日制普通科)を設置。この時点では女子校であった。
- 高等女学校卒業者(5年修了者)を新制高校3年生、高等女学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業者(3年修了者)を新制高校1年として収容。
- 併設中学校が1946年(昭和21年)に高等女学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
- 1949年(昭和24年)
- 3月31日 - 併設中学校を廃止。
- 4月30日 - 高校三原則に基づく、公立高等学校再編により、福山工業高等学校との統合で総合制の「広島県福山南高等学校」となる。普通課程・家庭課程(後の家政科)・工業課程を設置。男女共学を開始。
- 7月5日 - 校章を制定。
- 1953年(昭和28年)4月1日 - 工業部が広島県福山工業高等学校として分離独立したため、校名を「広島県福山葦陽高等学校」(再)に戻す。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 同窓会の経営による福山葦陽学院を再設置。
- 1963年(昭和38年)
- 3月31日 - 福山葦陽学院を廃止。
- 4月1日 - 家政科の募集を停止し、普通科(甲型・乙型)を設置。定時制課程(昼間2部制)を設置。
- 10月1日 - 「広島県立福山葦陽高等学校」(現校名)となる(県の後に「立」が付される)。
- 1971年(昭和46年)4月1日 - 普通科の甲乙型を廃止。
- 1976年(昭和51年)4月1日 - 第9学区総合選抜制(市内5校[1])を開始。
- 1982年(昭和57年)3月31日 - 現在地へ移転を完了。旧校地には広島県立歴史博物館が建てられている。
- 1988年(昭和63年)4月1日 - 第9学区が東西に分けられ、第9学区西部総合選抜(市内3校[2])を開始。
- 1998年(平成10年)4月1日 - 総合選抜を廃止し、単独選抜を導入。
- 2002年(平成14年)4月2日 - 定時制課程を従来の昼間2部制から昼間1部制に移行。
- 2006年(平成18年)10月29日 - 創立100周年記念式典を挙行。
部活動
- 全日制課程
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- 1994年(平成6年)広島県東部地区初の全国高等学校サッカー選手権大会広島県代表となる。準々決勝で、その年優勝した、川口能活、田中誠などを擁した強豪清水市立商業高等学校(現:静岡市立清水桜が丘高等学校)に敗れベスト8となる。当校出身の世良公則などがスタンドに応援しに来た。(第72回全国高等学校サッカー選手権大会)
著名な出身者
交通
- 最寄りの鉄道駅
脚注
関連項目
外部リンク