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市川哲夫

いちかわ てつお
市川 哲夫
生年月日 (1949-08-09) 1949年8月9日(75歳)
出身地 埼玉県浦和市(現:さいたま市
職業 プロデューサー
事務所 TBSテレビTBSメディア総合研究所
受賞
第50回ギャラクシー賞・志賀信夫賞(2013年)
放送批評懇談会報道活動部門委員(2020年)
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市川哲夫(いちかわ てつお、1949年(昭和24年)8月9日 - )は、ドラマプロデューサー[1]東京放送で多年にわたりテレビドラマ制作に携わり、制作現場を離れてからは、TBSメディア総合研究所調査情報編集長を担い[2]、退社後、中央大学総合政策学部特任教授に転じた。2024年現在は、日本映画テレビプロデューサー協会事務局長[2]放送批評懇談会、報道活動部門選奨委員を経て、在野のプロデューサーとして活動中。

来歴・人物

埼玉県浦和市(現:さいたま市)生まれ[1]埼玉県立浦和第一女子高等学校附属幼稚園、浦和市立高砂小学校浦和市立岸中学校を経て、1965年県立浦和高校へ進学、新聞部長、生徒会副会長を務める(作家の佐藤優は、浦高新聞部の10年後輩に当たる)。三年生の浦高祭では、祭歌を作詞、演劇コンクールでは、グランプリと主演男優賞を獲得。文化活動に積極的に関わり、後の職業選択にも繋がった。

学生時代には、邦画・洋画・そしてテレビドラマに耽溺たんできした。1971年クリスマスイブに新宿文化で吉田喜重監督『告白的女優論』を見終わる頃、伊勢丹前の交番に仕掛けられた時限爆弾が爆発(新宿クリスマスツリー爆弾事件)したが、市川は難を逃れた。もし、映画があと数分(約3分程度)だけ早く終わっていたら被弾した可能性があった。「冬の雲」や、「白い影」といったTBSドラマに魅せられて、TBSに就職を希望する。

TBS入社

1974年中央大学法学部を卒業し[1]、ドラマ志望でTBSに入社。入社2年目には、鴨下信一がプロデューサーを務める水曜劇場花吹雪はしご一家』のADとして配属される。市川はその後『さくらの唄』(久世光彦)、『ふたりでひとり』、『乱塾時代』でキャリアを積み、1978年には『新・七人の刑事」のADとなり、翌年秋に念願の金曜ドラマにシフトされた。

入社7年目の1980年に放送された金曜ドラマ、『突然の明日』でディレクター(演出)としてデビューを果たした。この作品の脚本家の1人として、山田信夫が参加していた。山田は映画界で1960年代から名を馳せており、市川は学生時代から山田脚本の映画は殆ど観ていたため、「一度は仕事に関わりたい脚本家」として憧れを抱いていた。同作品のデビュー回は自ら初稿を執筆し、それを山田が改稿したものを演出したので思い入れもひとしおだった。視聴率もそれまでの回の最高をマークし、この作品はエンタテイメントドラマとして高い評価を得た。のちに、山田とは1990年に放送の『閨閥』という長時間ドラマで再び仕事を共にするが、このドラマは、女優高峰三枝子の遺作となった。

プロデューサーとしてデビューした作品は、1982年日立テレビシティアイコ16歳』である。このドラマも好視聴率を得て、連続ドラマのプロデューサーとして地歩を築くきっかけとなった。 その後、『胸さわぐ苺たち』や、『深夜にようこそ』などを手がけたが、市川の功績で特筆されるのは1988年と翌年に放送された、『代議士の妻たち』シリーズ(全2作。1993年にスペシャルが制作された)のヒットである。政治ドラマの成功作がほとんど見られない日本のテレビ界で例外的な成果を挙げ、アメリカウォール・ストリート・ジャーナル紙でも1989年5月18日に大きく取り上げられた。 この作品は社会派ドラマに留まらず、エンタテインメントドラマとしての魅力が評価され、市川自身も記者役として出演している(「ドラマ出演」を参照)。

後年は、プロデューサー業が多くなったが、社会派、アイドル、ホームなど幅広いジャンルのドラマを手掛け、1980年代から1990年代のTBSドラマを牽引。演出家としての会心作は、1986年1月から放送された金曜21時枠のドラマ『親にはナイショで…』である。秋葉原を舞台に展開される青春ドラマだが、今でも、カルト的なファンが多い伝説的なドラマである。加えて、ドキュメンタリーでも成果をあげ、1982年に放送された音楽ドキュメンタリー『ジョン・レノンよ永遠に』、1990年に放送された新世界紀行コーカサス〜待ちつづける女たち』は、特筆すべき作品として挙げられる。

平成期

平成期に入ると、1990年には、ハイビジョンTVドラマ「陰翳礼讃」をプロデュ➖スして、東京➖モントルー国際グランプリを受賞、さらに日本人初のTBS宇宙特派員秋山豊寛の中継スタッフとなり、ベルリンブランデンブルク門からのベートーヴェンの『歓喜の歌』の中継を担当し、反響を呼ぶ。また市川ドラマは新たな展開を見せる。

1992年松本清張生前最後のドラマとなった『迷走地図』や、清水一行原作『派閥人事』(ギャラクシー奨励賞)をプロデュースした後、翌1993年には、ショーケンこと萩原健一の復活劇となった『課長サンの厄年』の制作を担当。

1995年3月、テレビ編成局に異動。編成局初出勤の朝、地下鉄サリン事件が発生。ドラマ担当ながらもオウム事件の対応にも追われる。同年夏には、モーツァルト住家再建プロジェクト「今、甦るモーツァルト」の編成担当として、ザルツブルク音楽祭を取材し、筑紫哲也頼近美津子と同行。翌年1月には、再びザルツブルク取材。モーツァルト住家再建竣工式に立ち会う。

1997年、制作局に復帰。日曜劇場海まで5分』、『埋葬された愛』などをプロデュース。

2003年から2007年まで2期4年にわたって日本映画テレビプロデューサー協会常務理事[2]、エランドール賞委員会委員長を務める。2007年、制作現場から離れTBS『調査情報』編集長に転じた。

TBS退社後

2016年、TBSメディア総研を退職。中央大学総合政策学部特任教授に就き、放送文化論を講じた。受講生の中から、メディア界(NHK、TBS、CX、T X、Y T V、朝日新聞、讀賣新聞、北海道新聞、博報堂、ぴあ、など)で活躍する卒業生を、数多く輩出した。

2023年9月には、『証言 TBSドラマ私史1978〜1993』を上梓して、好評を得た。

同年10月には、TBS「報道特集」に出演して、ジャニーズ問題について証言した。

主な作品

ディレクター プロデューサー

ドラマ出演

その他出演

編・著書

  • TBS調査情報』(2007年 - 2016年)
  • 『日本人とテレビ』(「中央評論310号」 2020年)
  • 『ある夏の夜に』(2021年)
  • 『証言 TBSドラマ私史 1978-1993』(2024年)
刊行

その他

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c 証言 TBSドラマ私史 市川 哲夫(著/文) - 言視舎”. 版元ドットコム. 2024年2月14日閲覧。
  2. ^ a b c 市川哲夫”. 放送批判懇談会. 2024年2月14日閲覧。
  3. ^ テレビがくれた夢 市川哲夫 その1”. TBSチャンネル. 2022年5月29日閲覧。
  4. ^ テレビがくれた夢 市川哲夫 その2”. TBSチャンネル. 2022年5月29日閲覧。

参考資料

外部リンク

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