山路 一善(やまじ かずよし、1869年4月24日〈明治2年3月13日〉- 1963年〈昭和38年〉3月13日)は、日本の海軍軍人。海軍中将勲一等正四位功三級。海軍航空の導入、整備に尽力し、「海軍航空の生みの親」と呼ばれる。
経歴
現在の愛媛県松山市に松山藩士・山路一審の三男として生まれる。
1886年(明治19年)海軍兵学校に入校。
1890年(明治23年)7月17日、海兵17期卒業。海軍少尉候補生として「比叡」乗組。
少尉任官後、日清戦争には「千代田」航海士として参加。黄海海戦などを戦う。
日露戦争開戦時は連合艦隊第一艦隊第二戦隊参謀(少佐)。日本海海戦には第一艦隊第三戦隊参謀として参加(中佐)。
第一次世界大戦は第三特務艦隊司令官(少将)。イギリス政府の要請により、ドイツの通商破壊活動への海上護衛任務のために軽巡洋艦「筑摩」「平戸」を率いてオーストラリア・ニュージーランド方面に出撃。シドニーを拠点に海上護衛任務を行う。
1923年(大正12年)3月31日、予備役。
1929年(昭和4年)3月13日、後備役。
1934年(昭和9年)3月13日、退役。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
親族
愛媛県師範学校長の山路一遊、日本興業銀行副総裁の佃一予は兄。
夫人すえは山本権兵衛の次女(財部彪夫人の実妹)。
栄典
- 位階
- 勲章等
人物
海兵17期の卒業席次は88人中3位。同期首席卒業は同郷の秋山真之であった。
第三特務艦隊司令官のとき、ドイツ仮装巡洋艦ゼーアドラー号の艦長フェリクス・フォン・ルックナーと面会している。
長男は、太平洋戦争終戦時の築城海軍航空隊司令・山路一行大佐(海兵49期・府立一中卒・東京出身)。妹のヨシは、横山新治陸軍大佐に嫁ぎ、その長男が横山勇である[17]。
著書
- 『禅の応用-日露海戦秘録』秀文閣、1941年。
- 『隻手の声-禅の活用』筑度書房、1958年。
- 『日本海軍の興亡と責任者たち』筑土書房、1959年。
出典
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」97頁。
- ^ 『官報』第2708号「叙任及辞令」1892年7月8日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
- ^ 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
- ^ 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
- ^ 『官報』第1923号「叙任及辞令」1918年12月29日。
- ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1923年5月1日。
- ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
- ^ 『官報』第3858号・付録「辞令」1896年5月12日。
- ^ 『官報』第6426号「敍任及辞令」1904年11月30日。
- ^ 『官報』7005号・付録「叙任及辞令」1906年11月2日。
- ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
- ^ 『官報』第2578号「叙任及辞令」1921年3月9日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『続 現代史資料 (4) 陸軍 畑俊六日誌』(みすず書房)536頁
関連項目