Share to: share facebook share twitter share wa share telegram print page

 

山本清衛

山本 清衛
生誕 1894年2月7日
大日本帝国の旗 大日本帝国 高知県吾川郡長浜村瀬戸
死没 (1973-10-13) 1973年10月13日(79歳没)
日本の旗 日本
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1916 - 1945
最終階級 陸軍中将
除隊後 桂浜観光・呉合同運送各会長、国際化成公社・手結山開発観光・大平産業各取締役、山内会館代表取締役、土佐女子高校理事、高知県軍人恩給連盟会長
墓所 高知市潮江筆山
テンプレートを表示

山本 清衛(やまもと きよえ、1894年明治27年)2月7日[1][2] - 1973年昭和48年)10月13日[1][2])は、日本陸軍軍人実業家。最終階級は陸軍中将。位階勲等は従四位勲二等[3]

経歴

高知県吾川郡長浜村瀬戸(現・高知市瀬戸)出身[1][2][4][5]。山本盛政・クマの三男として生まれる[1][4]海南中学卒を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業[1][6]。同年12月、砲兵少尉に任官し重砲兵第2連隊付となる[1][6]1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業[1]1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業し野戦重砲兵第2連隊中隊長に就任[1][2][5]

1929年(昭和4年)8月、高射砲第1連隊付となる[1]。陸士教官を経て、1932年(昭和7年)4月、砲兵少佐に昇進し野砲兵第1連隊大隊長に就任[1]関東軍鉄道線区司令部員を経て、1936年(昭和11年)8月、砲兵中佐に進み参謀本部員(鉄道班)となる[1]

1938年(昭和13年)7月、砲兵大佐に昇進し参謀本部運輸課長となる[1][5]1940年(昭和15年)3月、山砲兵第27連隊長に発令され日中戦争に出征[1][2][5]1941年(昭和16年)2月、第3師団参謀長に就任し太平洋戦争を迎えた[1][2][5]1942年(昭和17年)8月、陸軍少将に進級した[1][5]

1943年(昭和18年)1月、第5特設鉄道司令官に就任しビルマに赴任[1][2][5]。兼第2鉄道監を経て、1944年(昭和19年)6月、第33軍参謀長に発令された[1][2][5]1945年(昭和20年)2月、第15師団長心得に発令され、同年3月1日、陸軍中将に進み第15師団長に就任したがイラワジ会戦で苦戦を強いられ、同月20日に重傷を受けた[1][2][5]。同年7月付けで四国軍管区司令部付に発令されたが赴任はできなかった[1][5][注 1]1946年(昭和21年)4月に復員[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]

戦後は実業界に転じ、桂浜観光・呉合同運送各会長、国際化成公社・手結山開発観光・大平産業各取締役、山内会館代表取締役などを務め、観光業の発展に尽力[4]。ほか、土佐女子高校理事、高知県軍人恩給連盟会長などを歴任した[3]。墓所は高知市潮江筆山[3]

脚注

注釈

  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』773頁では「終戦は四国軍管区司令部附として四国善通寺で迎えた」とあるが、『日本陸海軍総合事典』第2版(167頁)では「未赴任」とあるので誤り。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『日本陸海軍総合事典』第2版、167頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』773頁。
  3. ^ a b c 高知新聞社 1999, 882頁.
  4. ^ a b c 高知新聞社 1999, 881頁.
  5. ^ a b c d e f g h i j 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』392-393頁。
  6. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』388、392-393頁。
  7. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。ISBN 4875032854 
Kembali kehalaman sebelumnya