小橋賢児
小橋 賢児(こはし けんじ、1979年8月19日[3] - )は、日本のクリエイティブディレクター、音楽イベントプロデューサー。The Human Miracle株式会社代表取締役。元俳優、映画監督である。妻はファッションデザイナー荻原桃子。1児の父。東京都大田区出身。血液型はA型。 経歴芸能界東京都大田区生まれ。家は裕福ではなく住んでいた家は戦時中から残るオンボロ。畳も床もところどころ抜けてゴキブリもネズミも出る。両親は共働きでいつも家にいなかった。学校から帰ると「これ温めて食べなさい」と置き手紙があり、兄と2人で食事をしていた。いつも親がいなくて携帯電話もメールもない。なんでも自分の思ったことを実行する、創意工夫をして遊ぶクセがついた[4]。 小学校3年生 8才だった1988年(昭和63年)、テレビ朝日『パオパオチャンネル』のオーディションに合格、同番組への出演で芸能界デビューした。その後『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』で岩井俊二監督と出会ったことで芝居が楽しくなり俳優に対する意識が変わった。翌年の1994年(平成6年)『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』が社会現象になる人気ドラマになったことで環境がガラリと変わる。全国的に一挙に顔を知られることとなり、ある日を境に段ボール二箱分のファンレターが届くようになった[4]。 その後はテレビドラマ『若葉のころ』、『青の時代』、『ちゅらさん』などにも出演した。 20代半ばから30代を考え出したとき「このままは俳優を続けていけば、それなりに暮らせて自分のポジションを築ける。しかし俳優を『しなければいけない』という感覚があり苦しかった。ロボットのように生きて、これが自分の人生なのか」と思うと怖くなり、自分の心を動かす旅に出る決心をする[5]。 起業2007年(平成19年)27歳で俳優活動を突如休業し、渡米した。その後、世界中を旅しながら多様な文化に触れる事でインスパイアをうけ、映画やイベント製作を始める[6]。 2009年(平成21年)には日本に帰国し、イタリア、スペイン、アイルランドとの合作映画『Imago Mortis』(監督、Stefano Bessoni)に出演した。2011年(平成23年)SKIPシティ国際Dシネマ映画祭にてSKIPシティアワードとSKIPシティDシネマプロジェクトをW受賞した[7]。2012年夏、作家・自由人の高橋歩の旅に同行し、制作した映画「DON'T STOP!」で映画監督デビューとなる。 ファッションブランド「Soareak」のPV監督やDJを経て、イベントプロデュース会社の社長に転身した。 2016年(平成28年)7月、自身が代表取締役を務める「LeaR(リアル) 株式会社」を設立(2021年7月、The Human Miracle(ザ・ヒューマンミラクル)株式会社に社名変更)[2]。 2021年(令和3年)9月5日に実施された、2020年東京パラリンピックの閉会式にて総合演出を担当[8]。7月に未来型エンターテインメントに特化したスタジオ「Sky Studio」設立、人々の心をゼロにする新規事業プロジェクト「0%」を同時に発表[2]。10月には新しい才能をプロデュースするプロジェクト『ART BASE ZERO』をスタートする[1]。 同年12月15日、2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)催事企画プロデューサーに就任が発表。開会式などの催事の計画や催事施設の運営管理を担うことになる[9]。 現在「Dîner en Blanc」「ULTRA JAPAN」など海外のイベントを日本上陸の牽引役の一人として活躍し、それぞれのCreative Directorを務める。また、初年度から各界で大きな話題となった伝統を未来へ紡ぐプロジェクト、未来型花火エンターテイメント「STAR ISLAND」の総合プロデュースも務めた[10]。国内のみならず、サウジアラビアの建国記念日での開催や、80万人が訪れたシンガポールを代表するカウントダウンイベントを開催した。その他、企画アドバイザーとして日の出桟橋の施設「Hi-NODE」を立ち上げるなど、様々な都市開発や地方創生に携わり多岐に渡り活動している。 受賞
人物
仕事術
出演★印は起業後のもの バラエティ番組
テレビドラマNHK
日本テレビ系
TBS系
フジテレビ系
テレビ朝日系
テレビ東京系
映画
ラジオ
Vシネマ
舞台
CM
ミュージック・ビデオ
その他
ディスコグラフィシングル
アルバム
書籍著書
写真集
脚注
外部リンク
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