宮原永海
宮原 永海(みやはら なみ、1978年1月24日[1][7] - )は、日本の女性声優、女優、歌手。アトミックモンキー所属[2]。東京都出身[2][3]。 経歴小さい頃から両親は色々な国に旅をしており、「平気で夏休みだからパリに行きます」と言って、1カ月休ませてくれるような親だった[8]。母は行動的で、海外のホテルなど、「ここに泊まってみたい」と思ったところ、絶対泊り、「やりたい」と思った事は絶対していた[8]。4歳の時にハワイに2カ月ぐらい家を借りて住んでいた時期もある[8]。6才から劇団ひまわりに所属し、子役としてCMやテレビドラマ、映画に出演する[8]。当時は「劇団にも自分から行きたい」と言ったんだと語り、落ち着きがない子供で、映画館に行ったところ、スクリーンの前のステージに勝手に上がってしまい、踊ったりしていた[8]。それに限らず、そういうことをしていたため、両親は心配して劇団に入団させたのかもしれないという[8]。小さい頃は19歳くらいまで「大きくなったら女優さんになりたいって、絶対なるんだ」と思っていたという[9]。身体が弱かったため、鍛えるために、劇団を一旦退団し、福島県の牧場で2年間ぐらい生活していた時期もあった[10]。その間は芸能活動は一切しておらず、そんなこと考えている余裕なかったという[10]。小学校卒業後、アメリカンスクールへ進学[7]。オーストリアのザルツブルクへの留学経験を持つ[7]トライリンガル(日本語・英語・ドイツ語)[1]で、英語の歌を自ら作詞することもある。留学する前、東京のある芸能事務所からデビューする話が決まっていたという[10]。しかし母は直感的な人物であり、人生の節目節目でアドバイスをくれるという[10]。この時母から「行ってきた方がいい」と言われたという[10]。その大手の芸能事務所が倒産してしまって、仕事をするなら、芸能関係以外は考えられなかったが、オーストラリアにいる間は仕事のことは忘れていたという[10]。学校の寮に住んで、普通に学生生活を送っており、モーツァルテウムから、教師に来てもらって歌の勉強はしていた[10]。この留学がきっかけで歌手を目指すようになる。帰国後は大手の芸能事務所に所属し、仕事を始める[6]。 それまでは自由に何を表現しても何も言われなかった[6]。しかし帰国後、電車の中では皆暗い顔をしており、ニコッとしていたところ変な人物と思われた[6]。当たり前だと思っていることを言うと、「言い過ぎだ」と言われたりして、疲れてしまった時期があった[6]。音楽を始めた時、録音した自分の声を聴きなれるのに、時間がかかり、「自分の声のイメージでは、こんな声じゃない」というのがあった[6]。 18歳ぐらいの時、芸能事務所で担当していたマネージャーが声優に詳しく、オーディションを受けたところ合格し、1997年より『夢のクレヨン王国』のユックタック役[1]で声優の活動を始める[5][6]。当時はシーンを録るのに時間がかかり、学校に通って声優の勉強をしていたわけではなかったため、全て現場で初めてやらないといけず、できなかった[6]。相方のシャカチック役の松岡由貴も同じで初めてのアフレコだったことから、2人で「キャラが出てきたらしゃべればいいんだよね?」と言っていた[11]。声優をしていた時にも声だけの演技の仕方が分からず、宮原の声をオンエアで聞いてみても、宮原だけものすごく浮いており、当初はイヤだった[6]。『おジャ魔女どれみ』の飛鳥ももこ役をもらった時に、イベントで、たくさんの子供達の目がキラッキラッしており、その時に、「声優ってすごくすてきな仕事かもしれない」と、認識が少しずつ変わった[6]。 「音楽活動をやりたい」と思っていたが、当時の事務所から「タレントとしていろいろやった方がいいよ」と言われた[6]。木の真ん中の幹のところに音楽があり、演技などの枝の部分があるのはいいが、それが定まらずにぶれたまま、ここでなんでもやるにはイヤで、そこの事務所を退所した[6]。事務所を退所後も声優の仕事は続けていた[6]。 東映アニメーションはモデル、タレントも多く声優に起用していたため、意外と寛大なところもあり、自分の良いところを引き出してくれるスタッフ達に恵まれたおかげで、救われた[6]。帰国して、「こうじゃいけない、ああじゃいけない」と言われた時とは違い、「こんな自分でもいいんだ」と言ってくれたプロデューサー、スタッフ達が「いるんだ」と知った時に、この仕事に対する認識が変わった[6]。 2001年、日本におけるイタリア2001年を記念してオリコン主催のネットオーディション「LOVE FUTURE 2001」でグランプリを受賞。 音楽活動は小さい頃から、劇団の稽古場で歌っていたが、本格的にやり始めたのは帰国してから、18歳からである[12]。大手の芸能事務所を退所して、声優の仕事を続けながら、色々な人物と音楽を作っていた[12]。1年間の制作期間を経て2003年に初めてのCD『REASON』を出した[12]。1年間で音楽をつくるのは生まれて初めて自分が感じていた音楽、歌詞が音楽になっていくのはわくわくしていた[12]。CDを作る前に、ジャズのセレクションの中で歌わせてくれたことも大きく、2011年時点でも習っている先生と共に音楽を作っていた[12]。一緒に演奏していたミュージシャンたちも、大御所で年齢がすごく上であったが、無理をせず歩み寄り一緒に音楽を作ってくれた[12]。それがベースにあったことから、楽しかったのかもしれないという[12]。 以前は田辺エージェンシー、オーシャンヴィュープロジェクト[13]、フェイスプランニング[14]、ケッケコーポレーション(預かり)(2007年10月-2012年12月)[15][16][17]に所属していた。2013年1月よりアトミックモンキー所属。 2015年1月26日、自身のブログにて結婚したことを公表した[18]。 人物・特色全体を通して東映アニメーション作品への出演が多く、土日アニメへの起用が多い。また本人がトライリンガルのため、『おジャ魔女どれみ』シリーズの飛鳥ももこ[注 1]や、劇場版『デジモンアドベンチャー02』のウォレスなどのように、外国語を話す役を演じることも多々ある。『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』のアーイシャでは、全ての台詞をドイツ語で演じた。少年役、少女役、動物役、性格面でも元気な役から無愛想な役まで、さまざまな役を演じている。 キャラクターの役づくりは初めから現場でしていた、唯一できたものがイメージで、「このキャラクターは丸い形で色があって」、「このキャラクターは形がとんがっている」などイメージを先に持ってきて演じているという[20]。 数年前までは、誘ってくれたり、来た仕事をしていた感覚であった[20]。もう少し自分の中の枠を広げたく、ここ数年はまったく知らない監督ともどんどん仕事をさせてくれるという[20]。2011年時点では学んでいる感じで、学校に行って学んでいないため、テクニックを現場で耳で聞いて身につけてきたという[20]。 宮原は短距離型で長距離型ではなくコツコツが苦手で、自分なりの集中の仕方があり、「その場の空気に入る」「なりきる」という感じだという[20]。短距離型ですぐに戻ってきてしまい、「この役を演じたから」と言って、私生活まで引きずるということはないという[20]。 歌手としてもテレビドラマ、映画のテーマソングを歌うなど活躍している。K.(山本景子)・井手麻理子と親交がありライブなども行っている。 また、『おジャ魔女どれみ』シリーズで共演したどれみ役の千葉千恵巳と特に仲が良く、シリーズ終了後も度々イベント等で共演しており、Whispersというユニットで活動もしている。 趣味・特技は歌うこと、映画を見ること[1]、ダンス、読書[4]、英会話、料理、ハーブ、乗馬[2]。2歳の頃、鏡の前でリボンをたくさん付けたおもちゃのマイクを使って歌っていたという[8]。 出演太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
劇場アニメ
OVA
Webアニメ
ゲーム
ドラマCD
吹き替え担当女優
映画
ドラマ
ナレーション
テレビドラマCM
舞台
その他コンテンツ
ディスコグラフィオリジナルアルバム
アニメ・ゲーム
ドラマ・映画
コンピレーション
ボーカル参加
コーラス参加
楽曲提供
CD未収録
脚注注釈
出典
外部リンク
|