定公 (衛)
定公(ていこう、紀元前?年 - 紀元前577年)は、衛の第24代君主。穆公の子。 生涯穆公の子として生まれる。 穆公11年(前589年)8月、穆公が薨去したため、子の姫臧(以降は定公と表記)が立って衛君となった。冬、楚が衛に侵攻し、次いで魯にも侵攻した。そこで和平を結ぶべく、11月に魯・楚・蔡・許・秦・宋・陳・衛・鄭・斉・曹・邾・薛・鄫の14ヶ国の要人が蜀(魯の地)で盟を結んだ。このとき衛からは大夫の孫良夫(孫桓子)が出席した。 定公元年(前588年)1月、定公は晋・宋・曹・魯の君主たちと会合し、共に鄭を撃った。しかし鄭の反撃にあって諸侯軍の敗北となった。この月、穆公の葬儀が営まれた。秋、大夫の孫良夫は晋の郤克(げきこく)と共に廧咎如(しゃうこうじょ、kängäräs)[1]を討伐した。11月、定公は孫良夫を魯へ遣わし、盟をあたためさせた。 定公3年(前586年)12月、定公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・邾・杞の君主たちと蟲牢(鄭の地)で同盟を結んだ。このとき宋が出席を断ったため、翌年(前585年)3月、衛の孫良夫は晋の伯宗・晋の夏陽説・甯相・鄭の人・伊雒戎・陸渾の蛮氏らと共に宋に侵攻した。 定公5年(前584年)秋、楚の子重(公子嬰斉)が鄭を攻撃したため、晋・斉・宋・衛・曹・魯・莒・邾・杞の9か国連合は鄭を救援した。8月、諸侯は馬陵(衛の地)で同盟を結んだ。以前から定公が孫良夫の子である孫林父(孫文子)を憎んでいたため、冬になって孫林父は晋へ出奔した。 定公6年(前583年)冬、定公は娘を魯に嫁がせた。 定公7年(前582年)1月、定公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・杞の君主たちと蒲(衛の地)で会合し、同盟を結んだ。 定公8年(前581年)春、定公の弟である黒背が晋の命令で鄭に侵攻した。5月、晋・斉・宋・衛・曹・魯の6ヶ国連合は鄭を攻撃した。 定公10年(前579年)夏、定公は晋の厲公・魯の成公と共に瑣沢(鄭の地)で会合した。 定公11年(前578年)5月、定公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・邾・滕の要人らと会合し、共に秦を撃った。 定公12年(前577年)春、定公が晋へ赴いたとき、晋の厲公は亡命中の孫林父を定公と会見させようとした。しかし、定公は承知しなかった。夏、定公が帰った後、晋の厲公は郤犨(げきしゅう)を使者に立てて孫林父を衛に送り届けさせた。定公は断ろうとしたが、夫人の定姜に諫められたため、孫林父を遂に赦した。9月、定公は病にかかったため、孔烝鉏(孔成子)と甯殖(甯恵子)に命じて愛妾である敬姒(けいじ)との間に生まれた衎(かん)を太子に立てさせた。10月、定公が薨去し、太子の衎が立って衛君(献公)となる。 妻子妻
子
脚注参考資料 |