堤功長
堤 功長(つつみ いさなが)は、幕末の公家、明治から大正期の神職・政治家。貴族院子爵議員。 経歴山城国京都で権中納言・甘露寺愛長の五男として生まれ、右兵衛督・堤哲長の養子となる[1]。安政2年6月14日(1855年7月27日)叙爵し、安政5年9月24日(1858年10月30日)に元服して昇殿を許され勘解由次官に任じられた[2]。その後、右兵衛佐となり明治維新を迎えた[2]。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[4]。 1873年(明治6年)4月18日、若松県十四等出仕に任じられた[3][2]。以後、史生、談山神社宮司兼中講義、中祗候、岩手県属、青山御所祗候などを務めた[3][2][5][6]。 1892年(明治25年)7月30日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[7][8]、死去するまで三期在任した[3][5][9]。 1913年11月、病のため赤十字病院で死去した[5]。 系譜脚注注釈出典参考文献
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