国東郡郡域概ね現在の下記の区域にあたるが、行政区画として画定されたものではない。 歴史国前[1]が最も古い表記で國埼郡、國﨑郡とも表記した。天平12年(740年)頃までに成立したとされる『豊後国風土記』において、豊後国の8つの郡のひとつとして國埼郡が挙げられている。風土記の國埼郡の条によれば、國埼郡の名は、景行天皇が海路で巡幸し、この地にさしかかった時に「彼(そ)の見ゆるは、若(けだ)し、国の埼(さき)ならむ」と言ったことに因んで付けられたとされる。 また、承平年間(931年 – 938年)に成立した『和名類聚抄』には、國埼郡に、武藏、來繩[2]、國前、田染[3]、阿岐(安伎)、津守、伊美鄕[4]、の7郷があったことが記されている。 その後、近世には宇佐神宮の荘園が開かれ、江戸時代には杵築藩などが置かれた。現在の国東の字は、元禄時代頃に豊後国の東方にあることから当てられるようになったものであるとされる。 近世以降の沿革
脚注参考文献
関連項目
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